
ラディカルフェミニズム · 映画
The Handmaid's Tale
マーガレット・アトウッドの同名小説を映画化。環境汚染により不妊が蔓延した近未来、強権的な神権政治国家「ギレアド共和国」によって、わずかに残された出産能力のある女性たちが「侍女」として支配階級の道具にされる姿を描いた衝撃のディストピア作品。
- 監督
- フォルカー・シュレンドルフ
- 年
- 1990
- 地域
- ドイツ / アメリカ
- 上映時間
- 109分
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フォルカー・シュレンドルフ監督による『侍女の物語』(1990年)は、マーガレット・アトウッドの不朽の名作ディストピア小説を初めて劇場映画化した作品であり、女性の身体が国家の所有物として管理される恐怖を鮮烈に描き出しています。環境破壊によって不妊が深刻化した近未来の米国に誕生した神権政治国家ギレアド共和国では、わずかに残された「生殖能力のある女性」たちが強制的に「侍女」に任命され、支配階級の子を産むためだけの道具として扱われます。物語の主人公オブフレッド(ナターシャ・リチャードソン)もまた、かつての名前や家族、そして読み書きする権利さえも奪われ、移動する子宮としてその生を限定されています。本作は、信教の自由や民主主義が崩壊した後に訪れる極端な父権制社会の姿を通じて、女性の自律性がいかにして段階的に削ぎ落とされていくか、そのプロセスを冷徹に提示しています。
本作のフェミニズム的な鋭さは、抑圧体制を維持するために女性たち自身の間に階級や分断が持ち込まれる過程を描いた点にあります。ギレアドでは女性たちがその役割に応じて色分けされた制服を強制されます。侍女は赤、妻は青、家事に従事するマーサは緑——この徹底した視覚的分類は、女性たちから個性を奪うだけでなく、互いを監視させ、連帯を阻む「分断統治」の戦略として機能しています。司令官の妻セリーナ・ジョイ(フェイ・ダナウェイ)のような特権階級の女性でさえ、自ら加担した体制という名の檻に閉じ込められており、彼女の憎悪は、全ての女性を劣等視するシステム内での不毛な権力行使の虚しさを物語っています。毎月行われる「儀式」と呼ばれる形式化された強姦シーンは、宗教的教義と国家暴力が結びついた時の恐ろしさを露わにし、性的搾取がいかにして「聖なる義務」として正当化されるかを暴き出しています。
シュレンドルフ監督は、ギレアドの息苦しさを象徴するように、抑制された映像言語を用いています。厳格で左右対称な構図や、鮮明すぎる色彩の対比は、国家による徹底した監視と秩序への執着を反映しています。これとは対照的に、かつての自由な生活を回想するシーンは断片的で霞んでおり、個人の歴史がいかに消し去られようとしているかを強調します。また、教育機関の教官として侍女を矯正するリディア小母(リディアおば)のようなキャラクターを通じて、抑圧された側の一部が体制の執行官へと取り込まれていく複雑な力学をも描き出しています。しかし、そのようなパノプティコン的な監視の下でも、地下組織「メイデイ」による抵抗や、人間的な繋がりの残り火は消え去ることはありません。ナターシャ・リチャードソンの抑えた、しかし力強い演技は、身体は隷属させられても、精神こそが究極の抵抗の場であることを観る者に知らしめます。
公開から数十年が経過した現在、本作が投げかける問いは、空想上のディストピアを超えて、現代的な警鐘としての緊急性を帯びています。環境危機や政治的混乱を背景に、女性の生殖に関する権利が再び深刻な脅威にさらされている現実の中で、本作が描く極端なシナリオは決して遠い世界の物語ではありません。映画は「個人的なことは政治的なことである」というフェミニズムの原則を地で行き、国家が個人の身体や親密な領域に介入することの危険性を訴え続けます。オブフレッドが不確かな未来へと連れ去られる幕切れは、女性の権利が一度勝ち取れば永続するものではなく、絶え間ない警戒と闘争によってのみ守られるものであるという、冷徹かつ重要な教訓を残しています。本作は、今なお続く女性たちの自由への闘争を映し出す、時代を超えた鏡と言えるでしょう。
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