
トランスフェミニズム · 書物
デ・トランス・ベイビー
原題Detransition, Baby
ジェンダーの焦土の上に核家族を再構築するための、シス/トランスの断絶に対する無慈悲な解剖。
書評と読書案内
トリー・ピーターズの『デ・トランス・ベイビー』は、受容を乞う温情的な嘆願書などではなく、ジェンダーという名の残骸の中で生き延びるための戦術指南書として機能する。本作は、トランス女性とシス女性が衝突する不快で粘着質な交差点を冷徹に解剖し、そこに伝統的な連帯ではなく、生物学的・社会的期待の圧倒的な重圧の下での共有された疎外感を見出す。ジェンダーとは肯定されるべきアイデンティティなどではなく、そこから生き延びねばならぬ外傷的な出来事であり、法外な入場料を要求する残酷な演技(パフォーマンス)であると、この小説は突きつける。「女性の魂」を保持しながらも、生存戦略として社会的パフォーマンスを放棄し「脱移行(デ・トランス)」して男性役割へと回帰したエイムズ(Ames)を中心に据えることで、ピーターズは「移行=救済」という直線的な物語を粉砕する。代わりに提示されるのは、「男らしさ」や「女らしさ」の規則が、継承された亡霊のごとく、その中に生まれた者も、そこへ押し入ろうと足掻く者も等しく呪い続ける、無秩序で円環的な現実である。
このテクストの輝きは、シスのまなざしのためにトランス経験を消毒することを拒絶する点にあり、それは特にピーターズが「セックス・アンド・ザ・シティ問題」と呼ぶものへの取り組みを通じて顕著となる。危うい魅力と感情的エントロピーのただ中を生きるトランス女性、リース(Reese)は、このジレンマを体現している。彼女は、現代の女性性の脚本――パートナーシップ、キャリア、そして最終的な母性の探求――が罠であることを認識していながら、それが利用可能な唯一の罠であることも知っている。「どの世代の女性もこの公式を何度も再発明し、混ぜ合わせ、ねじ曲げてきたが、決してそこから逃れることはできなかった」と物語は観察する。単なる生存を超えて「憧れ」の生活という濁った水域へと踏み出した最初の世代であるかもしれないリースの世代のトランス女性にとって、この問題は特異なほど先鋭的である。彼女たちは、シス女性たちがすでに欠陥品であると見なしたパズルを解こうとしているのだ。リースは小説の道徳的かつ混沌とした錨(アンカー)として機能し、因習的な女性性への憧憬がいかにして多幸感の源泉であり、同時に牢獄となり得るかを描き出す。ピーターズは書く。「リースは女性らしさのルールを作ったわけではない。他の少女たちと同じように、彼女もまたそれを継承したのだ」。この一文は、真正性を求めるトランス女性が、フェミニズムが解体しようとしている家父長制的規範そのものを、皮肉にも最も厳格に取り締まる者となってしまう残酷なアイロニーを暴き出す。これはトランス性の敗北ではない。服従と演技以外の「女性であること」の脚本を用意しなかった社会の症状なのだ。
本作の最も挑発的な理論的貢献は、おそらく「幼き象」のメタファーであろう。ピーターズは、トランス女性の世代が親を持たずに育っていると仮定する。それはあたかも、密猟者によって母系家長を虐殺された仔象のようである。エイズ危機と構造的暴力が「トランスの長老たち」を一掃し、現在の世代は指導者の安定した力なしに移行(トランジション)を航海することになった。その結果、これら「幼き象」は破壊的になり、巨大な力と深いトラウマを併せ持って社会の風景を彷徨う。「密猟者が母親を殺した場所に、トラウマを負った幼い象を戻しますか?」とテクストは問う。このメタファーは、いわゆる「有害な(トキシック)」振る舞いを、先天的な病理としてではなく、共同体と系譜の構造的な破綻として再定義する。それは、性別違和によって思春期を奪われ、少女の感情的道具箱を持ちながら大人の疲弊し武器化された肉体を引きずって女性の世界へと現れるトランス女性に課された、発達の遅延と対峙することを我々に強いる。
「脱移行(デ・トランス)」という亡霊は、右派政治が武器化しようとする物語を拒絶するようなニュアンスで扱われている。エイムズの脱移行は、「真の」男性性の発見としてではなく、安全への逃走――トランス嫌悪の世界でトランス女性であり続けるという消耗戦からの撤退として枠組みされる。それは戦略的撤退であり、迷彩装置(クローキング・デバイス)なのだ。これは、ジェンダーを内在的で不変の真理とする本質主義的見解に異を唱え、暴力に耐えうる能力に基づいて着脱可能な生存様式としてのジェンダーを提示する。「自分自身の感覚を満足させるために、ジェンダーのクソみたいなこと(bullshit)に我慢する必要はないと思うようになった」とエイムズは回想する。しかし、小説は内なる風景が変容したままであることを明示する。エイムズは、女性であることを「未知化(un-know)」することはできない。彼の状況の悲劇と喜劇は、男性性の演技性をも照らし出す――彼にとってそれは、再び身に纏った、サイズの合わぬ空虚な衣装に過ぎず、男らしさが彼にとっては不可視と安全を提供するだけの、もう一つのドラァグ・パフォーマンスであることを証明している。
物語の核心にあるのは、トランス女性とシス女性の離婚経験者の並置である。ピーターズは、これら二つの主体が深刻な「女性の問題」――具体的には、女性性という約束が巨大な嘘であったという認識――を共有していると示唆する。エイムズの元上司にして愛人であるカトリーナが妊娠したとき、そこに現れる三者関係――脱移行した父エイムズ、母性にアンビバレントなシス女性カトリーナ、不妊だが母性を渇望するトランス女性リース――は、脆く実験的な親族構造を形成する。この配置は、ユートピア的理想主義によってではなく、必死のプラグマティズムによって核家族に挑戦する。共に子供を育てるという提案は、クィアな生を排除する生殖未来主義に対する根本的なハッキングの試みである。カトリーナがリースに突きつける言葉――「黒人女性、貧困女性、移民女性のことを考えて。強制不妊手術のことを……そのすべてが、すべての母性が正当なわけではないという考えを強化するために起こったのよ」――は、白人トランス言説を時に蝕む独我論を打ち破り、トランス承認の闘争をより広範な生殖的正義の歴史と効果的に交差させる。理想的には、母性とは生物学的命令ではなく、我々が構築する「場面(シーン)」であると小説は示唆する。「それはあなたが構築するシーンであって、誰かから奪うシーンではない」とカトリーナは断言する。究極において、『デ・トランス・ベイビー』は安易な解決を提示せず、過去の廃墟の上に築かれるクィアな未来の、無秩序で脈打つ可能性だけを残す。それは、我々の欲望――リースが抱く服従や因習的な家庭生活への渇望といった「悪い」欲望でさえも――は往々にして最も深く植民地化された部分であるが、それこそが我々が持つ唯一の地図でもあることを認めている。
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