
デジタルフェミニズム · 書物
テクノフェミニズム
原題TechnoFeminism
ジュディ・ワイツマンが工場、家庭、ネット空間、設計を結び、技術の課題を誰が定義し、専門性と労働をどう配分するかを問う。
書評と読書案内
ジュディ・ワイツマンの『テクノフェミニズム』(TechnoFeminism)は、技術を運命として扱う見方を退ける。技術が女性を自動的に解放するわけでも、外部から必然的に抑圧するわけでもない。ワイツマンはフェミニスト科学技術論、サイバーフェミニズム、労働と生産の唯物論的分析を結び、ジェンダーと技術は互いを形づくると論じる。技術には機器だけでなく、設計制度、専門知、労働分業、投資判断、利用環境も含まれる。そうした関係は、どの身体や能力を標準とみなすかを決める一方、利用者によって交渉され、変えられうる。
本書は「テクノロジーの男性的デザイン」から始まり、技術決定論を越える視点、仮想空間のジェンダー、サイボーグ政治を経て、「隠喩と物質性」で統合を試みる。この構成は制度と日常をつなぐ。誰が専門家として訓練され、認められるのか。どのニーズが解決すべき問題として定義されるのか。新しい道具は誰の労働を減らし、誰に維持管理、ケア、リスクを残すのか。平等とは女性ユーザーや技術者を増やすだけでなく、設計目標を誰が決め、その帰結を誰が管理するかにも関わる。Wiley の書誌情報と目次は、この章立てを示している。
ワイツマンは2004年のインタビューで「未来の家」の設計を例に挙げる。そこではエネルギー、照明、暖房、娯楽が強調される一方、掃除、ケア、労力を減らす機器への配慮は乏しかったという。問題は技術の高度さではない。誰の時間を数え、何を問題とみなすかという前提が設計に入り込んでいるのだ。この例から、製品の宣伝目的だけでなく、家事、専門性、見えない保守労働がどう再配分されるかを検討できる。ABC に掲載されたワイツマンへのインタビューに、この批判が記録されている。
サイバースペースの議論では、仮想的なアイデンティティが想像力や連帯の可能性を開くことを認めながら、「オンライン」を身体や経済条件から自由な領域とはみなさない。アクセス、プラットフォーム設計、機器の生産、データ労働は不均等に分配される。流動的なアイデンティティだけを称賛すれば、インフラを所有し利益を得るのが誰かを見失いかねない。ここでの意義は現在のSNSを予言することではなく、デジタル・ユートピアに問いを返すことだ。仮想的な自由は誰の労働と資源に支えられ、どのようなオフラインの不平等をオンラインへ持ち込むのか。
「サイボーグの解決策」はドナ・ハラウェイを取り上げる。サイボーグは自然/人工、男性/女性といった境界を揺さぶるが、象徴上の越境がそれだけで物質的資源や政治的主体性を生み出すわけではない。ワイツマンはサイボーグの想像力を社会構築論と対話させ、主体を作り変える可能性を残しつつ、具体的な技術関係の分析を求める。同時代の『Radical Philosophy』書評でMegan Sternは、本書の明快な分野整理を評価する一方、サディ・プラントをサイバーフェミニズム全体の代表のように扱い、仮想性と物質性をめぐる他の複雑な議論を十分に扱っていないと批判した。理論を統合することは橋を架ける一方、内部の差異を平板化することもある。Stern の書評は、長所と異議の双方を示す。
本書の持続的な貢献は、新しい機器への即答ではなく、技術を社会関係として捉え、専門性、労働、身体、主体性がどう共に形成されるかをたどる分析の道筋にある。その歴史的射程と事例は、人種、植民地主義、障害、グローバルなサプライチェーン、環境コストをめぐる今日の具体的研究に取って代わるものではない。Avrina Josの「ポストコロニアルな技術的主体」をめぐる後年の研究は、西洋フェミニズムの技術的想像力が描く解放の政治は誰を代表するのか、国境を越える差異を理論にどう組み込むのかを問い、本書の議論を先へと広げる。Jos の論文は本書の要約ではなく、併読できる後続の問いである。
読者には、ワイツマンの初期著作『Feminism Confronts Technology』との併読を勧めたい。前者は技術へのフェミニズムの応答を整理し、サイバーフェミニズムと物質分析の接合を試みる。後者は産業、家事、生殖技術、空間編成を通じて技術のジェンダー化された歴史をたどる。単純に「良い技術/悪い技術」と判定するより、誰が設計し、誰の目的に応え、誰がコストを負い、利用者がその関係を変えられるのかを問うための二冊となる。
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