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女性の発明――西洋のジェンダー言説をアフリカから読み直す

アフリカ・フェミニズム · 書物

女性の発明――西洋のジェンダー言説をアフリカから読み直す

原題The Invention of Women: Making an African Sense of Western Gender Discourses

著者Oyèrónkẹ́ Oyěwùmí

Oyèrónkẹ́ Oyěwùmíが「女性」という普遍的カテゴリーを問い直し、ヨルバの歴史・言語・植民地的知識生産から西洋のジェンダー理論を検討する。

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書評と読書案内

Oyèrónkẹ́ Oyěwùmí は、ヨルバ社会に階層がなかったと主張しているのではありません。問うのは、なぜ研究者が、目に見える身体的性差を社会秩序の普遍的な出発点として扱うのかということです。『The Invention of Women』はオヨ=ヨルバの歴史を具体的な対象とし、「男性/女性」「夫/妻」といったカテゴリーを自明視して地域の制度を語る西洋学問を批判します。ミネソタ大学出版局の書誌が示すように、本書の反転は、既成のジェンダー・モデルにヨルバ社会を当てはめるのではなく、そのモデルが普遍的に見えるようになった過程を問う点にあります。

第1章は、身体がどのように「見えるもの」として解釈されるかを論じます。批判の対象は身体差そのものではなく、目に見える解剖学的特徴を社会的役割、権威、従属の自然な根拠とみなす推論です。それは特定の歴史の制度を、生物学があらかじめ決めたもののように見せてしまう。第2章ではオヨ=ヨルバの社会組織と世界観に移り、親族関係や権威を検討なしに西洋のジェンダー二分法へ翻訳すべきではないと論じます。本書が重視するのは、相対的な年齢や関係によって形づくられる「年長性/先順位」です。それは「女性/男性」の別名でも、平等社会の証拠でもなく、特定の場で地位や権威がどう組織されるかを見る視点です。

第3章はこの問いを歴史叙述へと進めます。著者は、生活のなかの過去、口承に受け継がれる歴史、植民地期に導入された文字による歴史学を区別し、誰が政治的行為者として記録され、どの語りが権威ある資料となるのかを問います。章題は、オヨの歴史記述において男性や王が歴史の主体としていかに「作られる」かを示唆します。アーカイブは過去をそのまま収めた透明な容器ではなく、選択・翻訳・制度的権力が形づくるものです。第4章は植民地主義による身体と公共的権威の再編を扱い、第5章はヨルバ語、口承、翻訳に焦点を移します。翻訳は既存のカテゴリーに別の単語を貼るだけではありません。どの差異を見えるものにし、どの関係を誤認させるかにも関わります。章構成はJSTORの書誌と章冒頭のプレビューで確認できます。

ここには、フェミニズムの知識生産への問いもあります。「女性」が歴史や文化を越えて同じ政治的主体を指すと前提すれば、研究者は自分の社会の概念を普遍化し、そこに合わない経験を欠如や例外として描きかねません。Oyěwùmí は暴力や不平等の分析をやめるよう求めているのではありません。権力がどの制度・歴史・語彙のなかで働くのか、記録に誰が主体として現れるのか、翻訳がすでに答えを決めていないかを先に問います。これは概念の植民地性を明らかにすると同時に、「アフリカの経験」を新たな単一モデルにしてしまう危険への注意でもあります。

本書をめぐる論争は、この方法の境界を検討するものとして読むとよいでしょう。Bibi Bakare‑Yusuf は批評的論考で、言語に明示的なジェンダー標識がないことは、日常の権力関係にジェンダー差がないことの十分な証拠なのかと問いかけます。結婚、家系への帰属、ケア、物質的関係をめぐる議論は、文法だけから社会の結論を導くことへの警告です。同時に彼女は、誤訳は双方向に起こるため、西洋の「夫/妻」モデルをそのままヨルバの関係に投影してはならないと述べます。Bakare‑Yusuf の批評は単純な否定ではなく、言語カテゴリー、制度的位置、生活上の帰結をそれぞれ論証するよう促します。Carole Boyce Davies は別の角度から、文化論的な分析がヨルバのアイデンティティを静的で閉じたものにし、階級、越境する黒人フェミニズムの歴史、物質的条件を見えにくくする危険を指摘します。Davies の論考の問題提起は、Bakare‑Yusuf の論点とは異なる尺度に関わります。

丁寧に読むには二つの点を同時に保つ必要があります。植民地統治や学術的分類は社会関係の見え方を変えうる一方、その過程を明らかにしても、地域の権力がジェンダー化されていなかったことや、植民地接触以前の社会が純粋で矛盾を欠いていたことが証明されるわけではありません。Oyěwùmí の議論を研究者自身のカテゴリーへの挑戦として受けとめ、具体的な歴史と物質的関係に照らして説明力を確かめるのが適切です。Azille Coetzee の後年の論考も、位置づけられた知を掲げるフェミニズム理論が、普遍的な「女性」のカテゴリーを再び持ち込んでしまわないかと問います。Coetzee の論文要旨

Ifi Amadiume の『Male Daughters, Female Husbands』との併読を提案します。二冊はオヨ=ヨルバとイボ Nnobi という異なる歴史から出発し、親族、地位、ジェンダー分類の組み立て方を比較する入口になります。同じ「アフリカ・モデル」の例でも、相互に置き換えられる作品でもありません。言語・権力・文化論についての論争は Bakare‑Yusuf、Davies、Coetzee に帰属させ、比較読書は解釈を広げるための提案です。

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