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ハッピーアワー

女性の友情 · 映画

ハッピーアワー

神戸で暮らす40歳目前の4人の女性を5時間17分にわたって追い、友情、結婚、仕事、別れを通して、本音を語り、互いの声を本当に聴くとは何かを問う。

監督
濱口竜介
2015
地域
日本
上映時間
317 min

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『ハッピーアワー』は、安定しているように見える女友達4人の関係から始まる。神戸で暮らすあかり、桜子、芙美、純は40歳を目前にし、互いの癖をよく知り、何でも話せると思っている。だが純が離婚裁判の最中だと告白した瞬間、その確信に亀裂が入る。衝撃は秘密そのものだけではない。親密でありながら、相手の現実を知らずにいられたという発見である。映画はそこから4人の家庭、職場、欲望へ分かれて進み、ひとりの告白が、ほかの3人にも自分が演じてきた役割を見直させる連鎖を描く。

5時間17分という長さは誇示ではなく、本作の倫理を形づくる選択だ。コミュニケーション・ワークショップ、その後の飲み会、温泉旅行、離婚裁判、文学の朗読会と質疑応答が、効率よく切り縮められずに続いていく。観客は沈黙、社交辞令、言い損ない、言い直しまでを同じ時間の中で経験する。一般的なドラマが女性の日常を「夫婦の危機」や「目覚めの瞬間」へ圧縮するのに対し、本作は結論になる前の迷いにも居場所を与える。見ることは、登場人物が主題を口にするのを待つことではなく、ためらい、回避、聞き違いに注意を向ける聴取の実践となる。

序盤の身体ワークショップは、その方法を端的に示す。参加者は「重心」を探し、額を合わせ、身体を通して相手を感じようとする。ぎこちなく滑稽にも見えるが、問いは切実だ。向かい合って言葉を交わせば、理解したことになるのか。長い記憶を共有する4人でさえ、純がどのような結婚生活を送ってきたかを見抜けない。夫たちは自分なりに責任を果たしたと思いながら、妻の孤独を理解できない。親密さは心が透明につながる状態ではなく、繰り返し学ばなければならず、それでも失敗しうる解釈の労働として描かれる。

フェミニズムの観点から重要なのは、結婚への批判が分かりやすい悪人に回収されない点である。権力は、夫が帰宅して食事や感情的な配慮を当然のように待つこと、妻の仕事や欲望だけが家族に合わせて調整可能とされることなど、小さく反復される秩序に宿る。離婚法廷では、中立に見える手続きが、純が別れるに値するほど合理的で、信用でき、従順かを審査する。男性たちは女性の不満を全く知らないのではなく、その不満が生活の構造を変えるほどの知識だとは考えない。父権制が「普通」「善意」「体面」を通して持続する仕組みと、それを吸収する感情労働の消耗が可視化される。

同時に、女性同士の友情も自動的に安全な避難所として理想化されない。あかりの怒り、桜子の共感、芙美の抑制には思いやりがあるが、判断、所有欲、自己投影も混じる。ひとりが離れると、残された者たちは、その関係に自分の安定をどれほど預けていたかを知る。この不完全さこそ本作のフェミニズム的な強さだ。連帯とは常に同意することでも、互いを救い続けることでもない。衝突のあとで境界を学び直し、知らなかったことを認め、相手の選択に余白を残す。その意味で友情は、心温まる装飾ではなく政治的な実践になる。

本作は神戸の市民参加型「即興演技ワークショップ」から生まれ、4人の主演にはほとんど職業的な演技経験がなかった。長期の稽古を経て、8か月の撮影中にも脚本の改稿が続けられた共同的な制作過程が、画面の沈黙や反応に独特の重みを与えている。4人はロカルノ国際映画祭で最優秀女優賞を共同受賞し、脚本もスペシャル・メンションを得た。一方で、女性の経験を男性監督が構成した作品であり、中心となるのは主に都市部の中産階級女性で、上映時間も現実的なアクセス障壁になる。それでも、普通の女性の時間をこれほど真剣に確保し、親密さ、ケア、結婚、自己変容を物語の背景ではなく社会構造として見せる映画は稀である。

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