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落穂拾い

フェミニスト映画批評 · 映画

落穂拾い

原題Les Glaneurs et la Glaneuse

捨てられた食べ物、老いる自分の身体、小型カメラを結ぶヴァルダ。何を価値あるものとするか、親密さが消さない力の差を問う。

監督
Agnès Varda
年
2000
地域
フランス
上映時間
82分
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食べ物を捨てることは、食べられなくなったことと同じではない。価値ある仕事から排除された人にも、知識、欲望、創造する力がある。アニエス・ヴァルダの『落穂拾い』(Les Glaneurs et la Glaneuse)は、その判断と生活の隙間からフランスの都市と農村へ入っていく。残り物を集める人と、映像を集める監督が一つのドキュメンタリーに置かれる。ただし、生きるために食べ物を拾うことと、資源のある芸術家が拾うことを選ぶのは、同じ自由ではない。

製作・配給のCiné-Tamarisは、2000年の82分の作品を主観的なドキュメンタリーと説明する。フェミニズムの問いは、女性監督が周縁の人を気にかけるという点に尽きない。見る者の身体と選択が、知識を作る過程にどう入るのか。ヴァルダは見えないカメラの後ろに隠れないが、それだけで全被写体を代弁する資格を得るわけでもない。

何が無価値になったと誰が決めるのか

捨てられたジャガイモによって、価値づけが物質的な過程として見える。商品の形の規格から外れた食べ物も、拾い、持ち帰り、食べられる。ハート形のイモには、分類からこぼれるものを別様に感じる余地もある。食べ物の豊かさとアクセスの不均等が同じ世界にある。不足を自然とのつながりの喪失だけで説明せず、節約だけでは、何が流通し何が残余になるかを決める力に答えられないと考えられる。

冒頭の落穂拾いの絵画は、現在の営みを歴史的な労働のイメージの隣に置く。しかし、全員を匿名の貧困群像に閉じ込めはしない。Chris Darkeとのインタビューで、ヴァルダは必要、芸術活動、楽しみという異なる動機を挙げる。拾うことは貧しい人に本来備わる性質でも、豊かな人が自由に名乗れる道徳的優越でもない。同じ身振りから関係が生まれても、その暮らしをやめられる力が等しくなるわけではない。

カメラの後ろの手が、映像の中の身体になる

小型デジタルカメラが変えるのは画質だけではない。ヴァルダによれば、撮りたいと思ってから実際に撮るまでの間隔を縮め、親密な場面の一部を一人で撮影できる。一方の手が他方を撮る。しわや老斑は、老いた女性が隠すべき記号にとどまらず、観察し、機器を操作し、創作する身体の一部になる。傷つきやすさと、映像を作る力が同時にある。

見る主体を若く、完全で、すべてを知る存在と考える慣習が問われる。一方で、一人の意志だけによる技術的な創造の神話でもない。製作側のクレジットには他の撮影、録音、編集の担い手もいる。一部を独りで撮ることは、共同の制作労働が消えることを意味しない。女性作者の自律は、協働と物質的条件を否定せず、仕事の仕組みを変えることからも生じる。

CNCの教材は、偶然揺れるレンズキャップの映像を、音楽とともに残した場面を論じる。通常は失敗として捨てられうる素材が、映画の遊びに入る。何を残す価値があるとするかが、作品の形式にも及ぶ。ただし、偶然は選択の不在ではない。ある部分を残し他を除くことには、なお作者の権力がある。

一つの動作から一人の生活へ

市場で食べ物を拾うAlainは、住んでいる場所で他の人に読み書きも教える。CNCの記述では、ヴァルダは遠くから観察した後に近づき、別の活動を追っていく。「捨てられた食べ物を集める人」という分類だけでは彼を捉えきれない。助けることと物資を必要とすることは、一つの生活に共存する。知識が比較的豊かな側から貧しい側へだけ流れるわけではない。

その展開は見る倫理も問う。撮影したから相手を知っているとは言えず、語ってもらうことが編集権の平等な分配とも限らない。ヴァルダの在場は関係の一方を示すが、監督と被写体の資源の差を自動的にはなくさない。親密な出会いによって他人を理解し尽くしたとするより、好奇心を開いたままにする読みが重要だ。

捨てられた物を美しくすることには危険もある。映像の優しさを楽しみ、生活を保つ難しさを忘れうるからだ。必要、選択、創作を分けることで、不安定さを自由として美化する衝動に抵抗できる。注意を再配分することには政治的な意味があっても、所得、住居、決定権まで自動的に再配分されるわけではない。映画は世界への近づき方を提示するのであり、見るだけで完了する社会政策ではない。

『5時から7時までのクレオ』では、若い歌手が見られる立場から他者を見る立場へ動き、身体と時間の別の関係が生まれる。ここでは監督が老いる自分も映像に入れる。ハラウェイの状況に位置づけられた知は、立場の自覚が、個人的感情を自動的な真理にせず責任を増やすにはどうすればよいかを問う。二つの映画と理論を一つの答えにせず、誰が見て、誰が応答でき、最後の映像を決める力を誰が保つかという関係に問いを置き続けられる。

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