脱植民地フェミニズム · 研究
植民地性とジェンダー
Colonialidad y género
Lugonesは植民地支配によるジェンダーの形成と、反植民地闘争が共同体内部の女性への暴力を見過ごす問題を考察する。
研究ガイド
ジェンダーの制度自体が植民地支配のなかで形成されたのなら、民族解放を先に、女性の問題を後にという順序は、解放の内部に植民地的な関係を残しかねない。María Lugonesの2008年の論文は、人種的抑圧を受ける男性が、なぜ自分たちの共同体の女性に対する暴力には無関心でありうるのか、という鋭い問いから始まる。
ジェンダーは後から加わる層ではない
Lugonesは有色人種女性のフェミニズムと、Aníbal Quijanoの「権力の植民地性」を接続する。植民地支配は土地を占領するだけでなく、労働、知識、権威も組織する。一方、既に存在するとされた男女の間で性的・生殖的資源を統制することだけをジェンダーと捉える説明には異議を唱える。それでは二元的な性分類、家父長制、異性愛秩序を前提としてしまい、それらが歴史的に形成され、押しつけられる過程を説明できない。
スペイン語論文が提示する「近代/植民地的ジェンダー・システム」は、人種化とジェンダー化を互いを形成する過程として捉える。独立した二つの制度が後から足されるのではない。これは統一された標本による国際調査ではなく、歴史研究や理論を組み合わせ、説明すべき問題そのものを組み替える介入である。
誰が「女性」として認められるのか
Lugonesはこのシステムの可視的な側面と隠された側面を区別する。白人ブルジョワ女性には、脆弱で貞淑であり、男性の保護を必要とするという像が与えられ、その権威や行動が制限された。対して、植民地化され奴隷化された女性は動物化され、過酷な労働や性的侵害に耐えられる身体とされ、同じ保護からは排除された。単に同一の待遇の程度が違うのではなく、分類と資源配分が関連しながら異なる形で働く。
「女性」の範疇からの排除という議論は、植民地権力の非人間化を記述するものであり、その分類への同意ではない。女性はみな弱さを求められる、という一見普遍的な命題に対し、誰には傷つきやすさが認められ、誰は傷つかないと想定されるのかを問う。白人中産階級女性の経験を普遍化すると、他の女性の労働と暴力経験は再び見えなくなる。
連帯は最初から存在するわけではない
Lugonesのいう有色人種女性は、閉じた生物学的属性ではなく、連合をつくるための概念である。一つの抑圧を共有しても共同体内部のジェンダー支配は消えず、同じく女性と呼ばれても対等な姉妹関係は保証されない。連合には共通の敵の宣言だけでなく、具体的な背反、利害、責任の認識が必要になる。
植民地化以前の社会についての議論は、Oyèrónkẹ́ OyěwùmíやPaula Gunn Allenらの研究に依拠する。そこからヨーロッパのジェンダー範疇の普遍性を疑うことはできるが、すべての植民地化以前の社会を同じ平等社会とみなすことはできない。地域、時代、政治制度の差異を検討する歴史的作業は依然として不可欠である。
Curielの反人種主義フェミニズム論は、反植民地運動自身のジェンダー政治を考える手がかりとなる。『Pilgrimages/Peregrinajes』からは、Lugonesの連合と多重抑圧の思想を別の経路でたどれる。解放が約束する共同体は、誰に、どの権力関係を耐え続けることを要求しているのか。それがこの論文の切実な問いである。
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