
チカーナ・フェミニズム · 書物
チカーナ・フェミニズム批判読本
原題Chicana Feminisms: A Critical Reader
二言語の文章、芸術、証言、応答形式の対話を通じ、チカーナ・フェミニズム内部の歴史、国境、性、階級、表象をめぐる対立と創造を示す学際的読本。
書評と読書案内
『チカーナ・フェミニズム批判読本』はまず、チカーナ・フェミニズムを単一で閉じた理論にすることを拒む。五人の編者は、歴史学、文学、心理学、人類学、民俗学、視覚芸術の書き手を集め、階級、年齢、セクシュアリティ、言語、地域、世代の差異を実際の議論へ入れる。題名の複数形 feminisms が重要である。共通の自己認識は内部対立を消さず、理論は一人の権威が全員を代表して宣言するものではなく、論争、翻訳、記憶、創作のなかで作られ続ける。
重要な歴史的背景は、1960~70 年代の Chicano 運動である。Maylei Blackwell による Las Hijas de Cuauhtémoc など女性の出版実践の研究は、チカーナたちが反人種差別・民族解放運動の内部から男性中心主義に異議を唱えたことを示す。人種、植民地主義、階級を二次化する白人主流フェミニズムも、民族的団結の名でジェンダー批判を封じる Chicano 政治も受け入れられなかった。そこで生まれるのは二つの運動の選択ではなく、白人至上主義、家父長制、国境国家を同時に問う交差的政治である。
本書で最も特徴的なのは、ほぼすべての主要論文に応答文が続く編集形式である。歴史研究、私信、インタビュー、詩、芸術批評、個人的観察が互いを問い、補足し、ときに明確に反論する。スペイン語と英語の併置も単なる多様性の演出ではない。誰が自分を翻訳しなければならないのか、どの言語を大学が知として認めるのか、混合言語が何を保存できるのかは権力の問題である。フェミニスト知は一方向の結論ではなく、誤読の危険を引き受ける関係として現れる。
文化を扱う章は理論を日常の形式へ戻す。Norma Cantú による『Canícula』執筆の考察、Olga Nájera-Ramírez の ranchera 歌謡における欲望と演技の研究、Amalia Mesa-Bains の domesticana と rasquachismo、さらに国境映画、母性身体、自伝を論じる章は、家庭用品、歌、写真、メロドラマ、装飾空間も批判的アーカイブになりうると示す。主流の学界が「理論的でない」と退けてきた労働と美学が、移住、貧困、人種化された女性性、生存戦略を理解する知になる。
性と欲望も重要な線をなす。沈黙と快楽、Chicana lesbian fiction、Emma Pérez の作品をめぐる議論は、チカーナを文化の守護者、家族の犠牲者、被害者だけにすることを拒む。欲望を書くことは、カトリック道徳、家族の体面、ナショナリズムが要求する「よい女」を揺さぶり、異性愛が共同体再生産の政治的義務とされる仕組みを露出させる。ここでフェミニズムは、外部社会による承認だけでなく、共同体内部で従順でない身体と親密性を認めることも求める。
2003 年刊行の本書には固有の歴史的位置がある。対話的形式はいまも有効だが、その後二十年以上にわたる Chicanx、Afro-Latinx、先住民、トランス、非正規移民のフェミニズムの終着点ではなく、学術的な語彙には初読者への壁もある。より長く残るのは編集倫理である。差異を調和として包装せず、応答を儀礼的な脚注にせず、創作や証言を理論の下位に置かない。そして、命名し、翻訳し、記憶を保存する制度的資源を誰が持つのかを問い続ける。
FemRes にとって本書は、連帯の政治を読む方法を与える。運動が「共同体」を掲げるとき、どの女性が批判を後回しにするよう求められるのか。主流フェミニズムがすべての女性を代表するとき、国境、言語、労働、植民地史はどこへ消えるのか。一篇だけを古典として抜き出すより、全巻を順に読むことで成果が見える。チカーナ・フェミニズムは固定したアイデンティティ一覧ではなく、複数の帰属を横断しながら形式を作り、歴史を修正し、論争を持続する知的実践なのである。
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