
戦争と平和 · 書物
私たちの立つ場所から
原題From Where We Stand
複数地域の女性反戦ネットワークを追い、ナショナリズム、男性性、人種主義、帝国が戦争を作る過程と平和運動内部の矛盾を分析する。『私たちの立つ場所から』は、反戦女性を研究者に説明される事例ではなく、理論を生産する主体として扱う。
書評と読書案内
『私たちの立つ場所から――戦争、女性のアクティヴィズム、フェミニズム分析』で、Cynthia Cockburn は、女性が生まれつき平和的だと仮定するのではなく、反戦活動に取り組む女性たちの実践から戦争を考えたら、フェミニズム分析は何を得るのかと問う。コロンビア、インドのグジャラート、シエラレオネ、セルビア、イスラエル/パレスチナの活動に加え、西洋の帝国主義戦争に反対する越境ネットワークを追う。題名は方法論でもある。知識は具体的な位置から生まれるため、誰が、どこから、どの権力関係のもとで語るのかを問わずに戦争を分析することはできない。
本書は証言を並べた活動家紹介ではない。Cockburn の研究アーカイブはアクション・リサーチのプロジェクト期間を2004~06年とし、プレビューはフィールドワークを2003年春から2005年秋までと記す。対象団体とつながり、ときには自らも参加した調査である。公開プレビューによれば、250人を超える女性と3人の男性に接し、163件の正式なインタビューを行い、91団体について情報を得て、そのうち63団体を詳しく調べた。重要なのは、選んだ調査地が現象を示すためのもので、世界を代表するものではないと本人が明記していることだ。これは探索的な比較研究であり、女性の意見調査でも、単一の平和運動を代表する主張でもない。Cockburn の研究アーカイブは団体に知見を還元する研究目的を説明し、許諾されたプレビューはその範囲と限界を記している。
冒頭の事例は異なる紛争を一つの物語にまとめない。コロンビアの三者間紛争、グジャラートでムスリムを標的とした暴力、シエラレオネの戦後復興は、異なる歴史的条件のもとでジェンダー化された権力が暴力とその後をどう形づくるかを示す。後半では、民族主義的な忠誠を拒むセルビアの女性たち、そして相手を絶対的な敵として扱うことを拒むパレスチナとイスラエルの女性たちへと焦点が移る。比較は繰り返し現れる問いを可視化する一方、歴史、責任、権力関係を交換可能にはしない。連帯とは、全員が同じ被害を受けていると言うことではない。
この方法から、Cockburn が「男性は好戦的、女性は平和的」という二分法を退ける理由も見えてくる。女性も民族主義や軍事化を支持しうる。「女性」は自動的に共通の政治的立場を意味しない。それでも女性のネットワークで組織することは、軍事化されたジェンダー関係に異議を唱える戦略的な場をつくりうる。その場は普遍的でも、内側の不平等から自由でもない。階級、人種化、国民的帰属、暴力との距離は、活動家が負えるリスク、発言できる内容、可能だと考える平和の形を左右する。フェミニズム分析は違いを見失わず、なお集団的行動の可能性を保つ必要がある。
パレスチナとイスラエルの女性たちによる越境の試みは、この緊張を切実にする。対話は非人間化を断ち切りうるが、それだけで不平等な政治状況を解消することはできない。「相互理解」が占領、権利の剥奪、権力差を対称的な意見の違いに言い換えるなら、問題を覆い隠してしまう。批判的に読むなら、本書の「他者化の拒否」は、どんな条件でも和解せよという命令ではない。関係を築く際に、差異や責任を消さないという要求として読むべきだ。これは「双方に非がある」という言葉を公平さと取り違える近道を防ぐ。
Cockburn は地域の団体から越境ネットワークへと視野を広げ、WILPF と国連の協働も検討する。WILPF と連携団体は国連安保理決議1325の実現に向けた提言に関わった。章題が「成果と矛盾」を並べるように、問われるのは制度内の働きかけが良いか悪いかだけではない。政策の場へのアクセスは何を可能にし、そこで誰の知識が認められ、運動の要求が公式の言葉へ移されると何が失われうるのか。制度との関わりを草の根政治への裏切り、あるいは確実な成果のどちらかと決めつけず、争点を含む実践として捉える必要がある。
抗議の方法を扱う章では、理論が実践へ戻る。街頭行動、抗議のための徹夜の集会、ピースキャンプ、象徴的な儀礼、沈黙、直接行動は、単なる手段の一覧ではない。政治的主張を可視化し、別の関係を実際に演じる方法でもある。運動の手段は、その目指す未来を先取りしているだろうか。この問いは本書の大きな議論につながる。戦争は平和を突然中断する戦闘だけではない。軍事制度とジェンダー規範は、政治決定、国民的物語、家庭内の分業、そして誰を守り誰を犠牲にするかを通して再生産される。フェミニスト反軍国主義は最も目立つ暴力を非難するだけでなく、組織的暴力を当然に見せる条件を調べる。
本書の立場は、その限界を示すことでむしろ明確になる。Cockburn が反戦運動に近いことは、参加者の考えや内部の摩擦を描く力になる。同時に、研究者の位置は方法の一部であり、どこからでもない視点を装うことはできない。選ばれたネットワークはすべての女性を代表せず、2003~05年の調査は当時の文脈に置いて読むべきで、現在の活動地図として扱うべきではない。Tarah Brookfield の書評は、軍事化された国家計画を支持する女性たちを本書が十分に扱うか、という批判的な問いも提起する。これは確定した欠落ではなく、読む側が検討すべき論点である。Brookfield の書評は、反戦フェミニズムが運動と国家の対立だけでなく、女性の政治内部の不一致にも目を向ける必要を示している。
本書は、特定の運動ネットワークの記録であると同時に、政治的な主張を読む方法でもある。運動が「平和」と言うとき、誰の安全を指しているのか。越境連帯は権力の非対称を名指しているのか、それとも覆い隠すのか。帝国の暴力に反対しながら、自らの側の民族主義やジェンダー階層も問えるのか。こうした問いは摩擦のない連帯を約束しないが、連帯に説明責任を求める。「私たちの立つ場所」は、あらゆる立場を同じ力を持つものとして扱えという意味ではない。共通の未来を語る前に、知識と責任がどこから生じるのかを確かめよ、という提案である。
概念的な導入を先に読みたい場合は、Laura Sjoberg の『ジェンダー・戦争・紛争』も参考になる。フェミニスト国際関係論を体系的に紹介する本書は、Cockburn による運動の実践に根ざした研究を補完する。
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