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グリッチ・フェミニズム

デジタルフェミニズム · 書物

グリッチ・フェミニズム

原題Glitch Feminism: A Manifesto

著者Legacy Russell

Legacy Russellは、グリッチを人種化・ジェンダー化された身体分類への拒否として捉え、デジタルアートの可能性とプラットフォームによる捕捉を考える。

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書評と読書案内

Legacy Russell の『グリッチ・フェミニズム』は、グリッチを修復すべきエラーではなく、身体がシステムの分類を拒む瞬間として捉える。オフラインの肉体だけが本物で、デジタルな自己は虚構だという区別を Russell は退ける。黒人、クィア、トランス、ジェンダー規範に従わない人々にとって、画面、アバター、ハンドルネーム、仮想空間は、自分のあり方を試し、可視性の条件を変え、仲間と出会う場所になりうる。デジタルな身体は現実の安価な代用品ではない。現実が形づくられ、争われる場所の一つなのだ。

この主張は「失敗」の意味も変える。誰かを受け入れられないフォーム、既知のカテゴリーに収まらない画像、名前を変え続ける自己は、安定した識別を求めるシステムから不具合と見なされるかもしれない。Russell はその出会いを逆側から読むよう促す。壊れているのは身体ではなく、狭すぎる分類なのではないか。「グリッチ」は、みずからを中立と称するシステムの限界を可視化する政治的方法となる。制度は読み取りやすく、安定し、記録できる身体を求める。プラットフォームは表現をデータに変え、国家や市場は分類によって承認、リスク、価値を配分する。拒否だけでこうした構造が消えるわけではないが、その規則が自然なものだという主張には亀裂を入れられる。

本書は、普遍的な身体理論を先に定め、周縁化されたアーティストを例として添えるのではない。芸術実践そのものを議論の担い手にする。Russell は、Mark Aguhar の2012年の作品 these are the axes が、身体を肯定しながらジェンダー二元論に抵抗する方法を考える手がかりになったと語る。この作品が本書の冒頭近くに置かれることには意味がある。問われるのは、ある身体を既存の視覚秩序に入れられるかだけではない。誰がその秩序をつくり、どのような生を認識できないのか、という問いへ進む。芸術は理論の挿絵ではなく、自然に見える分類を揺さぶる知の実践なのだ。

Shawné Michaelain Holloway のインターネット・パフォーマンスは、自己を表現することとプラットフォームに取り込まれることの緊張を際立たせる。Russell は、時間をかけて展開し、デジタル・プラットフォームを通じて記録されるパフォーマンスに注目する。その持続的な存在は、実験し表現する場をつくる一方、作品を保存し、枠づけ、可視性を管理する仕組みの中で流通させる。だからネット上の自己は、無条件の解放でも、偽りの仮面でもない。誰が人の現れ方を決めるのか。プラットフォームを使いながら、その人の意味を定める最終権限は渡さずにいられるのか。作品はそう問いかける。

Sondra Perry による画像の操作と身体—機械関係の探究は、「可視性」自体を争点にする。Russell の語りでは、Perry のデジタル実践は人種とジェンダーを同じ画面に置く。ジェンダーは人種化され、人種もジェンダー化される。見えることは、ともすれば無条件によいこととされ、見られれば承認や保護、包摂を得られるかのように考えられる。しかし画像は分類し、さらけ出し、異国趣味化し、監視することもある。加工された画像は、これまで表象されにくかった身体に空間を開く一方、画像技術が見る権力の歴史と切り離せないことも示す。ここでは形式そのものが政治的な行為となる。何が描かれているかだけでなく、どのように身体を視線にさらし、見る側に何を知る権利があると思わせるのかが問われる。

Russell によるネット・フェミニズム史への介入も、古い系譜に名前を追加するだけではない。黒人やクィアの人々がインターネットを集いの場、ナイトライフ、パフォーマンス、共同の探究に使ってきた経験は、主流の語りに十分含まれてこなかった。歴史を書き直すことは理論も変える。誰の実践が技術知として認められるのか。誰の喜びや実験が真剣な議論に値するのか。デジタルな生の歴史を語るのは誰なのか。ここに登場するアーティストたちは、インターネットが既存の権力によって発見された中立の新天地ではなく、不平等に形づくられながら、共同体の実践によって別様にもつくられる生活空間だと示す。

ただし、グリッチが自動的に解放をもたらすわけではない。プラットフォームはサブカルチャーをコンテンツにし、自己探究をユーザー・プロフィールへ変える。監視、嫌がらせ、モデレーション、アルゴリズムの偏りによる負担は均等ではない。Russell はデジタル空間を、身体への暴力から切り離されたユートピアとして描かない。オンラインとオフラインをつなげて考えるからこそ、具体的な物質条件が見えてくる。誰が安全に試行錯誤できるのか。デジタル生活を支える労働を誰が担うのか。共同体や生計を失わずに、露出から退けるのは誰か。マニフェストという形式は、こうした問いを開き、拒否を創造の力として名づける点で鋭い。一方、プラットフォーム統治、労働条件、技術のサプライチェーンを網羅する本ではない。この限界は議論の価値を損なわないが、美学的な攪乱を構造変革の代わりにしてはならないと教える。

『グリッチ・フェミニズム』は、すべてのエラーが抵抗であり、すべてのオンライン空間が安全だと主張するのではなく、エラー、可視性、身体の可能性との関係を問い直す。Russell は Momusのインタビューで Aguhar、Holloway、Perry らの実践について語り、Versoの書籍ページには本書の版情報が掲載されている。技術システムの設計やデフォルト設定が人種的な階層をどう組み込むかをさらに考えるなら、Ruha Benjamin のRace After Technologyと読み合わせたい。Russell がデジタル・ツールを使う身体とアイデンティティの可能性を問うのに対し、Benjamin はそのツールがどうつくられ、誰に奉仕し、中立性の名のもとにどんな権力を隠すのかを追う。

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