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レスビアンの身体

レズビアン分離主義 · 書物

レスビアンの身体

原題Le Corps lesbien

著者モニク・ウィティッグ (Monique Wittig)

フランスの急進的フェミニスト、モニク・ウィティッグによる実験的文学の傑作。本書においてウィティッグは、言語の暴力的な再構築を通じて、男性を完全に排除した純粋なレズビアンのエロティックな空間を創造しようと試みています。彼女は身体の伝統的な描写を解体し、解剖学的な正確さと詩的な狂乱をもって、女性の主体性を再形成します。

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書評と読書案内

1973年のフランス文壇において、ヌーヴォー・ロマンの牙城である深夜叢書(Éditions de Minuit)から出版されたモニク・ウィティッグ(Monique Wittig)の『レスビアンの身体』(Le Corps lesbien)は、一つの爆発のような衝撃をもたらし、その余波は現代のフェミニズム理論やクィア理論を今なお揺さぶり続けています。当時、すでに『子供の領分』(L’Opoponax)でメディシス賞を受賞し、フランス女性解放運動(MLF)の中心人物の一人であったウィティッグは、本書において自らの政治的かつ文学的なプロジェクトを前例のないレベルで急進化させました。1969年の『女ゲリラたち』(Les Guérillères)が勝利した「彼女たち(elles)」の集団的な叙事詩を歌い上げたとするならば、『レスビアンの身体』は、愛し合う二人の間の暴力的で貪欲な親密さへと焦点を急激に絞り込み、不可能な任務に挑みました。それは、家父長制の象徴秩序が追放した虚無の中から、レズビアンの主体性を力ずくで奪還することです。本書は単なるフィクション作品ではありません。それは言語の血肉で書かれた唯物論的フェミニズムの宣言であり、男性が不在であるだけでなく「思考不可能」であるような宇宙を、無(ex nihilo)から創造しようとする試みなのです。

この作品の理論的な出発点は、「女性」とは自然に与えられた実体ではなく、男性への社会的隷属によって作り出された政治的階級であるというウィティッグの確信にあります。したがって、彼女が後に『ストレート・マインド』(The Straight Mind)で定式化したように、「レズビアンは女ではない」のです。なぜなら、彼女たちは強制的な異性愛を拒否することで、「女性」という階級を定義する所有関係から逃亡しているからです。しかし、この新しい、逃走する主体を、抑圧者の言葉でどう語ればよいのでしょうか?ウィティッグは言語を中立的な道具ではなく、あらゆる文法においてジェンダーを強制するイデオロギー的な戦争機械として捉えています。レズビアンの主体を誕生させるためには、物語の内容を変えるだけでは不十分であり、統語論(シンタックス)を破壊し、文法を犯し、彼女が言うところの言語的な「トロイの木馬」を作動させなければならないのです。

この暴力はまず、人称代名詞の分断された表記、j/e において具体化されます。主体を真ん中から切り裂くこのスラッシュは、単なるタイポグラフィ上の装飾ではなく、非合法な主体が主権言語へと強行的に侵入した痕跡です。普遍的な「私(Je)」はデフォルトで男性的であり、女性の「私(je)」は従属的な反響に過ぎないため、レズビアンの主体はこの可視化された亀裂を通してのみ自らを発話することができるのです。この j/e は、緊張状態にある主体、言語の格子をこじ開けて初めて存在し得る権力への意志(will to power)を標示しています。それは「父の法」の下での偽りの統一を拒否し、抵抗の拠点として自らの分裂をあえてさらけ出す主体の叫びなのです。

本書の構造自体が、伝統的な線形的な語りに対する冒涜です。テキストは、息継ぎのための句読点を持たない密度の高い散文のブロックで構成され、ページの中央に太字の大文字で印刷された身体部位の長いリストによって暴力的に中断されます。これらのリスト――腕神経叢大動脈後頭骨内臓――は、叙情的な流れを残酷に切断する機能を果たしています。それらは比喩を拒絶します。長きにわたる男性の詩的伝統が女性の身体をフェティッシュ化するために断片化してきたこと(ブラゾン詩など)に対抗し、また「エクリチュール・フェミニヌ」が母性的身体を神秘化しようとする傾向に対抗して、ウィティッグは冷徹な解剖学的正確さを押し付けます。ここでは、身体は花や海のようなものではありません。それは筋肉であり、骨であり、神経であり、体液です。あらゆる臓器を外科手術のような正確さで命名することで、ウィティッグは女性の身体の生物学的物質性を再領有し、生殖機能や美的客体化から引き剥がして、その原初的な機能性とエロティックな力を返還するのです。

これらのページで展開されるエロティシズムは、ロマンティックで「バニラ」なイメージからは程遠い、恐るべき強度を持っています。ウィティッグの恋人たちは、ただ触れ合うだけではありません。彼女たちは飽くことなく互いを開き、貫き、貪り食い、解体し、再構築します。私たちは愛の食人(カニバリズム)を目撃します。ここでは、自己と他者の境界は、神秘的な融合によってではなく、物質的な摂取によって消失します。J/etu(あなた)の内臓に入り込み、肺の中を探検し、耳小骨を愛撫し、血液の中を泳ぎます。このテキストの暴力にはカタルキスの機能があります。それは、異性愛によって製造された従順で統合された「女性の身体」を破壊し、栄光に満ちた、拡張可能な、その脆弱さにおいてこそ不死身であるような身体を誕生させることなのです。これはオルフェウスとエウリュディケの神話の急進的な書き換えですが、ここではオルフェウスは振り返ることによってエウリュディケを失うのではなく、欲望と声の力によって彼女をこの世に連れ戻します。たとえ彼女を見つけ出すために、彼女を引き裂かなければならないとしても。

ウィティッグはまた、古典神話や文学との批評的な対話も行っています。彼女はアマゾネスの伝説、聖書(雅歌)、ホメロス、サッフォーから養分を汲み上げ、それらを流用し、意味を書き換えます。彼女は自らの武器を鍛えるために、家父長制文化から聖なる火を盗み出すのです。物語の舞台となる島(レスボス島の暗喩)は、強い意味でのユートピア的な空間です。それは家父長制の地図上における「場所のない場所(no-place)」であり、社会的な引力の法則が停止した一時的自律ゾーンです。この空間において、女性はラカン理論のように欠如(ファルスの不在)によって定義されるのではなく、溢れんばかりの自足的な豊かさによって定義されます。

重要なのは、この文学的分離主義が現実逃避ではなく、生存と建設のための政治的戦略であることを理解することです。ウィティッグにとって、主人の道具を使って主人の土地で主人を解体することは不可能です。分離し、「男」と「女」というカテゴリーがもはや通用しない領域(テキスト上の、想像上の、物理的な)を創造し、そこから現実に対して攻撃を仕掛けなければなりません。本書は一種の脱自然化マシン(machine of denaturalization)として機能します。それは私たちが自然だと思っていたものを奇異なものに変え、私たちの身体、欲望、感情が、変容可能な歴史的構築物であることを示してくれます。

『レスビアンの身体』の受容史は誤解に満ちていました。一部の本質主義的フェミニストは、そこに男性的な暴力の再生産を見出し、ここでの暴力が反転され、再定義され、象徴秩序そのものに向けられていることを理解できませんでした。他の人々は、その一見した無味乾燥さに当惑しました。しかし、安易な誘惑の拒絶こそが、本書の力なのです。それは読者に能動的な参加を要求します。テキストの歓びにアクセスするためには、方向感覚を失い、揺さぶられ、時には嫌悪感を抱くことさえ受け入れなければなりません。

ウィティッグの遺産は、特に彼女が長く教鞭をとった英語圏において甚大です。ジュディス・バトラー(Judith Butler)は『ジェンダー・トラブル』の中で、異性愛を生物学的事実ではなく政治的体制として理論化したウィティッグへの負債を認めています。最近では、ポール・B・プレシアド(Paul B. Preciado)が彼女を、身体とジェンダーのテクノロジーを思考できる「パンク」で唯物論的なフェミニズムの先駆者として称賛しました。今日、ノンバイナリーやジェンダー・フルイドの問題が舞台の中央を占める中、『レスビアンの身体』はかつてないほど予言的に見えます。それは私たちに、いわゆる「真の自然」を見つけるよう促すのではなく、言語と行動を通じて、性差の暴政から解放された前代未聞の身体と快楽を発明するよう促しているのです。これは怪物のような本であり、武器としての本であり、出版から50年経った今でも、既成の枠組みを超えて自由を思考しようとする者にとって、鋭利な刃であり続けています。

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