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内戦におけるレイプ

性暴力反対 · 書物

内戦におけるレイプ

原題Rape During Civil War

著者Dara Kay Cohen

ダラ・ケイ・コーエンは91の内戦と三つの事例を比較し、強制徴募、武装組織の結束、戦時レイプの報告の関係と、その説明の限界を検討する。

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書評と読書案内

ダラ・ケイ・コーエンのRape During Civil Warは、内戦下の性暴力をめぐる「差」に注目する。戦時レイプが男性の攻撃性、民族的憎悪、戦場の混乱から必然的に生じるのなら、なぜ同じ紛争でも、広範なレイプが報告される武装組織と、報告が比較的少ない組織があるのか。この問いは加害を機能的に説明して免責するためではない。戦争が始まればレイプは当然起きるという宿命論を退け、予防可能な組織的条件を問うための出発点である。著者が主に扱うのは武装戦闘員による民間人へのレイプ、とりわけ集団レイプであり、あらゆる性暴力、すべての被害者の経験、すべての戦争を網羅する本ではない。

本書は1980年から2012年までの主要な内戦91件を比較した後、シエラレオネ、東ティモール、エルサルバドルを詳しく検討する。国際比較では複数の資料をもとにレイプの「報告された深刻度」を分類し、政府軍と反政府勢力、徴募のあり方、その他の戦争条件を比べる。これは実際の発生率を直接数えた悉皆調査ではない。スティグマや恐怖、調査機関の能力、政治的な記録・告発、資料が保存される可能性も、何が見えるかを左右する。報告の差を暴力の完全な地図とみなすと、データが支えられる範囲を越えてしまう。

コーエン独自の説明は、戦闘員の「社会化」に焦点を当てる。拉致や強制徴募によって、互いに知らず信頼関係のない人々が武装組織に編入されることがある。著者は、一部の状況では集団レイプが仲間同士の結びつきを作り、タブーを共有することで共犯関係を強い、民間生活との断絶を促し、軍事化された男性性を演じる場となりうると論じる。これは組織についての仮説であり、民族性や男性の本質に説明を帰すのではなく、徴募、集団規範、指揮官が許容するものへと問いを移す。レイプが結束に不可欠だという主張でも、明示的な命令がなければ組織責任がないという意味でもない。黙認、報奨、監督の欠如、仲間からの圧力もまた権力関係である。

三つの事例は、理論を例示するだけでなく、その適用範囲を試す。シエラレオネでは革命統一戦線(RUF)が拉致による徴募に大きく依存し、戦争の特定の時期にレイプの報告が増えた。コーエンは元戦闘員への調査・聞き取りを、真実和解委員会の資料や人権記録と照合し、他の武装組織や略奪機会も検討する。主要な傾向を説明するうえでは社会化が有力だとする一方、機会に乗じた加害や指揮系統に結びつく暴力も排除しない。東ティモールはより複雑である。1999年の住民投票前後には加害者の構成と政治状況が変わり、レイプ報告の傾向も変化した。混乱に乗じた行為、独立をめぐる報復政治、社会化のいずれも考慮が必要になる。また、親インドネシア民兵の徴募についての証拠は相対的に乏しい一方、インドネシア軍によるレイプは同じ形の強制徴募がなくても起きた。エルサルバドルは別の限界を示す。強制徴募があっても広範なレイプが自動的に生じるわけではない。著者は制度規範、国外からの政治的圧力、FMLNの組織理念が暴力を抑えた可能性を検討する。徴募は単独で作用するスイッチではなく、他の条件との関係で意味を持つ。

本書のフェミニズム的な意義は、性暴力を戦争組織と政治的責任の問題として捉えながら、被害を受けた人々を統計の点に還元しないよう促すことにある。国際比較はパターンを示し、聞き取りや地域の記録は、徴募の経験、暴力が容認される過程、スティグマや沈黙が証言に及ぼす影響を捉える。両者は補完的だが、置き換え可能ではない。著者の分析は主に女性被害者について利用できる資料に依拠し、男性被害者が十分に記録されていない可能性も認める。研究者が分類できる証言を残せるのは誰なのか。「報告がない」ことは暴力が少なかったことなのか、それとも安全に語り記録する条件がなかったのか。組織論はパターンの説明にはなるが、被害を受けた人が語る身体の損傷やその後の暮らしを代弁するものではない。

理論には重要な異論もある。政治学者ステイシス・N・カリヴァスは学術書評で、集団レイプは部隊の結束を意図して作るために利用されるのか、それとも強制徴募、規律の弱さ、暴力的環境から生じる意図せぬ帰結なのかと問う。この違いは責任や予防についての結論を左右する。また、国家軍と反政府組織を同じ組織として扱うことや、国家単位の徴募指標がどこまで説明力を持つかにも注意を促す。これは書評者の批判であり、本書内でコーエンが解消した反例ではない。むしろ本書の有用な境界を明らかにする。コーエンが提示するのは検討すべき一つのメカニズムであって、すべての戦争、あらゆる性暴力、個々の加害者を説明する包括理論ではない。「なぜこの傾向が生じたのか」と「誰が責任を負うのか」を混同すれば、因果説明が免責に聞こえ、責任を明示的な命令者だけに誤って限定しかねない。

アニック・T・R・ウィッベンのFeminist Security Studiesと併読すると、二つの問いを行き来できる。武装組織はどのように暴力的慣行を作るのか。そして、安全保障を語る物語は、誰を脅威・保護者・被害者として可視化し、誰を排除するのか。コーエンは徴募と集団力学を通じて前者を、ウィッベンは安全保障知識を形づくる語りを通じて後者を検討する。これはFemResによる比較読書の提案であり、両著者が互いを引用したり同じ結論を掲げたりするという意味ではない。二つの視点を保つことで、制度の仕組みを分析しつつ、理論が被害を受けた人々の声を押しのける危険も見失わずにすむ。

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