
アフリカ・フェミニズム · 映画
バネルとアダマ
原題Banel e Adama
ラマタ・トゥレイ・シーのプラール語の寓話。決められた母親役割を拒む女性を通じ、愛、共同体の義務、神話の力を問う。
- 監督
- Ramata-Toulaye Sy
- 年
- 2023
- 地域
- フランス / セネガル / マリ
- 上映時間
- 87分 · カンヌとロッテルダム映画祭の目録は87分と記載。台詞はプラール語。
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バネルは自分の人生を望む。しかし、望むだけでそれが簡単になるわけではない。ラマタ・トゥレイ・シーの2023年の長編デビュー作『バネルとアダマ』は、自分たちの望む形で共に暮らそうとするセネガル北部の夫婦と、受け継がれた責任との衝突を描く。プラール語による、欲望と帰属の寓話である。フェミニズムから見て重要なのは、女性に割り当てられた役割の拒否を認めながら、それを単純な解放物語の出発点にしないことだ。
バネルは、安心して称賛できる善良な行動の模範ではない。監督は意図的に、両義的で時に破壊的な力を彼女に与える。女性が物語の中心になる条件が変わる。好かれやすく、他者を世話し続け、政治的に模範的でなくても、複雑に描かれてよい。複雑さを認めることは、行為を支持することとは異なる。自分で決めることと責任の関係も、恋愛対伝統という競争より難しい問題となる。
家は望むだけでなく、作らなければならない
配給元の公式資料のあらすじは、二人の夢に物質的な形を与える。砂に埋もれた家を掘り出そうと働くのである。暮らせるかもしれない家には、時間、体力、掘る作業が必要だ。自律は独立の宣言だけでは成立しない。場所、労働の分担、日常を維持する方法を要する。砂によって、想像する未来は住む前に労働を投じる対象になる。
同じ紹介では、女性には家事、耕作、子ども、男性には牛の世話という責任が割り当てられる。バネルはその役割が作る毎日の別離を受け入れず、アダマと放牧に出たい。分業は仕事だけでなく親密さも組織する。誰が誰と時間を過ごせるかは、どの仕事が適切、必要、交渉可能とされるかに左右される。労働が関係を可能にすると同時に、その限界をどう決めるかが問える。
世襲の村長役をアダマが拒むことは、当初は二人の計画に属する。ただし、責任から離れることと、それに結びつく必要をなくすことは違う。共同体が彼の人生全体を所有するかどうかではなく、服従を唯一の貢献とせずに義務を交渉し直せるかが問題だ。二人だけの避難場所は夫婦を守っても、他の人々との関係をどの条件で続けるかには答えていないかもしれない。
母になることを帰属の代価にしない
Africulturesのインタビューで、監督はバネルが子を望まないことを、選ぶ権利への意図的な主張とする。子どもが欲しくても、欲しくなくてもよい。女性であることから母になる役割が自動的に導かれてはならない。すべての女性に母職を拒ませる要求ではなく、他者の期待する未来を身体が供給して初めて居場所が安定するという規則への異議である。
その規則を拒んでも、愛が対等な代わりの生き方を与える保証はない。二人の排他的な関係も、相手の選択を測る基準になりうる。伴侶が関係の外に義務を持たないことに依存する独立とは、どのような独立なのか。生殖を強いられない権利と、この問いを同時に残す点に映画の難しさがある。一つの権利が、選んだ親密な関係のすべての対立を解決するわけではない。
監督は共同体を単純に拒まず、その中で個として生きることを探りたいと語る。舞台を読むうえで、この意図は重要だ。セネガルの農村を、変われない文化の便利な像にして、孤立する二人に近代的自由を代表させてはならない。監督は、悲劇的な虚構が現実の共同体に可能なことへの判決ではないと強調する。言語と環境を映画に提供する人々に不変の本質を割り当てず、物語の制約を考えられる。
干ばつを道徳的な説明にしない
監督によれば、緑に満ちた明るい世界から、次第に彩度を落とした白っぽい映像への移行は、フィルターとカラーグレーディングによって作られた。視覚的な雰囲気と人物の変化の関係を設計したのであって、異なる季節を撮り続けた記録ではない。形式は、消耗を抽象的な論点になる前に感じさせられる。風景も、恋愛の背後に置く美しい背景以上のものになる。
監督は魔術的で悲劇的な因果を通じて、干ばつをバネルと結びつける。ここには鋭いフェミニズム上の緊張がある。女性が決められた人生を拒み、危機にある世界がその拒否とつながる。神話は彼女に想像上の大きな力を与えるのか。それとも、女性の逸脱が集団の災厄を招くという、なじみ深い話を反復する危険があるのか。この問いは監督の環境への関心を否定しない。共同の破局が一人の女性の罪責という形を取るとき、何が起こるかを考える。
比喩と物理的説明の区別は必要である。虚構の干ばつは、現実の共同体が気候被害を受ける原因を示さず、扱いにくい主人公は女性の自律が自然を壊す証拠にもならない。この危険を指摘しても、作品を単純な女性嫌悪として裁くことにはならない。同じ形式の異なる効果に注目する方法なのだ。アフリカの黒人女性に神話的な大きさを与えながら、その大きさが彼女に負わせる代価を問い続けられる。
拒否に必要なのは、模範的な主人公だけではない
サフィ・ファイの『モサーヌ』は具体的に比較できる。称賛される少女は結婚相手を自由に選べない。バネルには望む関係があるが、妻の生活をどう組織するかをなお争う。人物も言語も虚構世界も異なる二作を並べることで、拒否を生きられる選択にする条件が問える。特別な女性に特別な運命を与える悲劇や伝説は、社会の責任を見え続けさせるのか。
監督は以前、『ナイルの聖母』の脚本を共同執筆した。この確認できる創作上のつながりも、二作を同じ歴史の章にせず、比較を開く。ラヒーミの映画化はルワンダの女子校の分類と排除を扱い、シー自身の長編は欲望、共同体の義務、神話をセネガル北部に置く。魅力的な像や聖なる物語が権威をどう配分するかに、どちらも注意を向けさせる。視点の違いによって、女性の人物を単一の「アフリカの伝統」の交換可能な説明図にせずに済む。
映画の有益な挑戦は、バネルが女性のよい代表かを決めることではない。彼女の欲望、拒否、他者を傷つける可能性を区別したまま描かせることだ。女性の自由は道徳的な完璧さを条件とせず、その自由を守るために選択が他者へ及ぼす影響を否定する必要もない。二つを同時に考えれば、共同体と生きられる関係の模索は、出来合いの対立でどちらかを選ぶより難しく、考えがいのあるものになる。
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