
家族の解放 · 映画
Desperately Seeking Susan
退屈な毎日を送る主婦が、新聞の三行広告に載った謎の女性スーザンに興味を抱き、ひょんなことから彼女と間違えられ大冒険を繰り広げる物語。80年代のニューヨークを舞台に、女性のアイデンティティ、自己発見、そして社会の規範からの解放を、ユーモアとポップなセンス、そして珠玉のファッションとともに描き出します。
- 監督
- スーザン・セイドルマン
- 年
- 1985
- 地域
- アメリカ
- 上映時間
- 104分
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スーザン・セイドルマン監督の『マドンナのスーザンを探して』(1985年)は、スクリューボール・コメディの形式を借りて、女性のアイデンティティと解放を洗練された視点で探求した、80年代インディペンデント映画の金字塔です。物語の主人公は、ニュージャージーの郊外で物質的には満たされながらも、退屈な専業主婦生活に息詰まっているロバータ(ロザンナ・アークエット)。彼女は唯一の楽しみとして、新聞の三行広告を通じて恋人と密会を繰り返す謎の女性「スーザン(マドンナ)」の動向を追いかけていました。ある日、ある勘違いからロバータがスーザンと間違えられたとき、映画はニューヨーク・下東区のネオン煌めくストリートを、女性の自己発見のための巨大な遊び場へと変貌させます。秩序正しいが魂を削るような家庭生活と、スーザンの混沌としていながらも何者にも縛られない自由なライフスタイルを対比させることで、セイドルマン監督はレーガン政権下のアメリカで女性に割り当てられていた狭い役割を解体していきます。
本作の革新性は、従来の男性中心的なナラティブを拒絶し、全く異なる社会階層に属する二人の女性の間に芽生える「精神的な連帯」を軸に置いた点にあります。マドンナが演じるスーザンは、結婚や企業社会といった既存の支援システムの外側に完全に自立して存在する、剥き出しの女性的なパワーを象徴しています。彼女は、男性に救済や保護を求めるような「マニック・ピクシー・ドリーム・ガール」ではありません。彼女のカリスマ性は、誰にも所有されないという徹底した自足心から生まれており、それがロバータを魅了し、最終的には彼女に勇気を与えます。映画でお決まりの「記憶喪失」という設定も、ここではフェミニズム的な装置として機能しています。「完璧な妻」であった記憶を失うことで、ロバータは一から人格を再構築する機会を得て、自分が「探していたスーザン」とは、実は自分の中に眠っていた自立した自己であったことに気づくのです。
視覚面において、本作は80年代のポップ・フェミニズムのマニフェストと言えます。古着屋で見つけたスーザンのアイコンであるピラミッド柄のジャケットを購入するという「持ち物の交換」は、主体的意志(エージェンシー)の移譲をメタフォリカルに表現しています。セイドルマンのカメラは、男性の欲望の対象としてではなく、女性たちの内面世界や互いの交流を優先して捉え、女性の喜びや創造性を正当な映画的主題として確立しました。マジック・クラブや上映技師の部屋といった舞台設定は、アイデンティティ自体がある種の「パフォーマンス」であり、何度でも書き換え可能であることを示唆しています。公衆トイレのハンドドライヤーで脇の下を乾かすスーザンの無防備なシーンなどは、当時の主流映画では稀だった、加工されていない生身の女性の親密さを称賛しています。
結局のところ、『マドンナのスーザンを探して』は、アイデンティティの流動性や、都市空間における女性の冒険を肯定した、第三波フェミニズムへの重要な架け橋となりました。ロバータの変容は、ロマンチックな結末によって完結するのではなく、彼女が「安定」よりも「冒険」を選択し続けるという決意によって成し遂げられます。アイデンティティの混乱が収まったとき、観客に残されるのは「真の解放とは絶え間ない探求のプロセスである」という力強い教訓です。女性の人生において最も重要な関係は、自分自身の欲望との関係であること、そして自分を見つけるためには、時に誰かの新聞広告の中に迷い込むことも必要であることを、本作は瑞々しく証明し続けています。
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