
脱植民地フェミニズム · 映画
ペルセポリス
原題Persepolis
マルジャン・サトラピの自伝的グラフィック・ノベルをアニメーション映画化。イラン・イスラム革命という激動の時代を背景に、一人の少女が抑圧的な社会の中で自由を求め、アイデンティティを確立していく姿を、シャープな白黒の映像美で描き出します。カンヌ国際映画祭審査員賞を受賞した世界的な傑作です。
- 監督
- マルジャン・サトラピ、ヴァンサン・パロノー
- 年
- 2007
- 地域
- フランス
- 上映時間
- 96分
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マルジャン・サトラピとヴァンサン・パロノーによる『ペルセポリス』(2007年)は、中東の女性に対する欧米の画一的な視線を解体する、アニメーション回想録の傑作です。サトラピ自身のアイコニックなグラフィック・ノベルを、ハイコントラストなモノクロームの世界へと翻訳することで、本作はオリエンタリズム的な「異国情緒」を完全に拒絶しました。その代わりに提示されるのは、イラン・イスラム革命という激動期を背景とした、極めて個人的で、時にユーモラス、そして究極的には悲劇的な成長の記録です。本作のフェミニズム的な力強さは、主人公マルジャンを単なる「歴史の犠牲者」として描かない点にあります。闇市でアイアン・メイデンのテープを買い叩き、政治犯に関する教師の嘘を堂々と正す彼女の姿は、宗教的極権主義の影にあっても決して屈しない、一種の「パンク・ロック・フェミニズム」を体現しています。
映画の感情的な核となっているのは、マルジャンと祖母との絆です。祖母は、革命前のイランにあった世俗的で誇り高い女性たちの系譜を象徴しています。ブラジャーの中に常にジャスミンの花弁を忍ばせ、離婚や尊厳について率直なアドバイスを与える彼女は、女性の自律(オートノミー)が罪ではなかった過去への道標です。彼女の存在は、イランのフェミニズム意識が「西洋からの輸入品」などではなく、家庭内での対話や代々の知恵を通じて受け継がれてきた、深く根ざした独自の伝統であることを証明しています。対照的に、革命防衛隊によるシステム的な抑圧は、神学的な必然ではなく、女性の身体を監視し「恥」を植え付けることでしか維持できない、極めて脆弱な権力構造として描かれます。「ベール」は単なる宗教的衣服ではなく、マルジャンが常にその限界を試し、押し広げようとする政治的な境界線として機能しているのです。
物語の後半では、ディアスポラ(離散者)となった女性が直面する「二重の流放」が描かれます。イランでは西洋的すぎると疎まれ、西洋(ウィーン)では「戦争の国から来た少女」として、カジュアルな人種差別と無理解に晒される——。このセクションは、アイデンティティの探求が単なるジェンダーの問題に留まらず、文化的な帰属や人種の問題と不可分であるというインターセクショナルな視点を与えています。テヘランへの帰還、そして最終的なフランスへの旅立ちは、安全よりも「誠実であること(整合性)」を優先した、魂の自立のプロセスと言えるでしょう。現在イランで続く「女性・生命・自由」運動の文脈において、『ペルセポリス』は今なお不可欠なテキストです。政権が女性を公の場から消し去ろうとしても、記憶と音楽、そしてジャスミンの香りに支えられた人間の精神は、決して打ち倒されることはないのだと、本作は我々に思い出させてくれます。
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