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サンビザンガ

植民地史 · 映画

サンビザンガ

原題Sambizanga

サラ・マルドロールは、植民地警察に拘束された夫を探すマリアを通じ、女性の移動、ケア、情報伝達を反植民地政治の基盤として描く。

監督
Sarah Maldoror
年
1972
地域
アンゴラ / フランス
上映時間
97 min

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『サンビザンガ』は、反植民地闘争を捜索の旅の中に置きます。アンゴラ人労働者ドミンゴスがポルトガル秘密警察に拘束された後、妻マリアは幼い子どもを連れて、夫の行方を探します。政治は遠くのスローガンとしてではなく、尋ねること、歩くこと、子どもの世話をすること、見知らぬ人の反応を読み取ることを通じて日常に入り込みます。題名はルアンダ近郊のサンビザンガ地区を指し、拘禁と権力の空間を想起させます。

植民地権力は監房や尋問だけでなく、誰が移動できるのか、誰が連絡できるのか、どの関係が脅威とみなされるのかを管理することで働きます。マリアの旅は伝統的な英雄の武装した活躍とは異なりますが、女性、子ども、高齢者、知人の間に広がる情報の網を明らかにします。道を教える人、子どもを見守る人、情報を次へ渡す人がいる。ケアは行動の外側にある柔らかな背景ではなく、政治を支える基盤として描かれます。権力との目に見える対決だけを行動として認めると、抵抗そのものを可能にする関係を見落としてしまいます。

マルドロールのモンタージュは、こうしたつながりを見えるものにします。拘束されたドミンゴスと彼を探すマリアの間を映像が往復し、監獄による分断だけを観客の視野にしません。マリアのスカーフや服、疲労をとらえる近景、街や田園を進む身体は、演説に頼らない政治的知識を形づくります。拷問の描写は抑制され、加害者だけが画面を支配することを避けます。監獄内の脅威と外で遊ぶ子どもたち、歩みを続けるマリアが並置されると、抑圧と生活の持続が同じ画面に残ります。終盤の哀悼と踊りも、単純な勝利の図ではありません。喪失を引き受けながら記憶を保つ共同体の姿です。

このフェミニズム的な読みは、マリアを抽象的な「強い女性」に変えません。彼女の行動は他者に支えられており、その関係こそが映画の政治的な力です。本作はアンゴラのあらゆる政治的立場を中立的に概説する作品でもありません。反植民地解放とMPLAに結びつく政治教育を描く、明確な歴史的位置を持つ映画です。ポルトガル語、リンガラ語、キンブンド語の声が併存することも、コミュニケーションを映画形式の一部にしています。情報は人々の関係から切り離されて自動的に流れるのではなく、伝達され、聴かれ、信頼されて初めて届きます。

制作地の歴史も、スクリーンを国民生活の媒介されない記録として扱わないための手がかりです。アンゴラでの撮影がかなわず、マルドロールはコンゴで本作を制作しました。道路や村、都市は物語の地理であると同時に、制作上の制約によって形づくられた映画空間でもあります。この事実を踏まえると、映画を透明な民族誌として見ることを避け、越境的な協働と具体的な制約のもとで反植民地主義の文化がどう作られたかに注意を向けられます。

この抵抗の物語の先にも、フェミニズムの問いは残ります。女性のケアが不可欠だと認めることは、その労働を公平に分担することや、担い手に解放の意味を決める対等な権限を与えることと同じではありません。マリアの忍耐を、女性があらゆる喪失を引き受け、他者が運動を代表して語るべきだという道徳的な命令にしてはならないのです。コンバヒー・リバー・コレクティヴ声明とともに読むと、連帯は闘争を支えると同時に、同盟内部の支配を問い直す余地を持たなければならないと考えられます。アンゴラの反植民地史を米国の黒人フェミニストの組織化と同一視するのではなく、その違いを踏まえて問うのです。政治的な生活を維持する人々は、そのルールを変えることもできるのでしょうか。

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