FemRes成長し続けるレビュー
金陵十三釵

性暴力反対 · 映画

金陵十三釵

原題The Flowers of War

チャン・イーモウ監督の『金陵十三釵』を、占領下の南京における女性の連帯、貞操による序列、性暴力の表象、救済者の物語から読み解く。

監督
チャン・イーモウ
年
2011
地域
中国 / 香港
上映時間
146分 · フランスのApple TV配信版。英国劇場版は142分11秒
この資料を共有
X ↗Facebook ↗

作品を読む

『金陵十三釵』(The Flowers of War)は、1937年12月、陥落した南京での生存をめぐる危機を、避難者を受け入れたカトリック教会に集約する。女子生徒、秦淮の妓楼で働いていた女性たち、そして後に神父を装うアメリカ人納棺師ジョン・ミラーが、日本軍の暴力にさらされる。厳歌苓の小説を映画化したチャン・イーモウは、女性同士の排斥が保護へと変わる関係を感情の中心に置く。そこには、登場人物が勇敢かどうかより難しい問いがある。女性の勇気をたたえる物語が、その犠牲によって女性間の序列を維持することはないだろうか。

以下では重要な展開と結末に触れ、戦時性暴力について論じる。

誰の身体が代わりに差し出されるのか

日本軍が女子生徒に「祝賀会」での歌唱を命じると、ユーモーを中心とする女性たちは身代わりになることを決める。まず責任を明確にしたい。性暴力を行うのは侵略者であり、女性の職業や服装、性経験がその原因なのではない。子どもの保護に、成人女性の価値を低く見積もる論理は必要ない。「子どもを守る必要がある」が「別の女性なら被害は軽い」へと置き換わるとき、脆弱さへの配慮は、暴力の受け手を値踏みする判断に変わってしまう。

二つの集団の対立は、身代わりを単なる危険な役割分担では済まなくする。同じ避難所に来ても、彼女たちは純潔、体面、恥をめぐる秩序の異なる位置に置かれている。Katherina Liの「分断された姉妹関係」の研究は、貞操規範が女性同士の抑圧に使われることを論じる。この問いから見ると、戦争は日常の性道徳による序列を消すとは限らない。誰が安全な場所に残り、誰が出ていくべきかという生死の判断にまで、それを強めうる。

性経験のある人は性暴力を受けても失うものが少ない、という発想は同意を消し去る。身体を、使用によって価値の減る物として扱うからだ。セックスワーカーにも拒否し、生き延び、他者の暴力を負わずにいる権利がある。この権利を認めることは人物の勇気の否定ではない。勇気が、ある集団全体に課される義務へ変わるのを拒むことである。

犠牲を選ぶことと主体性

女性たちを受動的な供物とだけ読むことも、彼女たちの判断を奪う。身代わりは彼女たち自身の決定であり、軽蔑されてきた人々が子どもを守ることに、映画の感情的な力がある。監督はインタビューで、より弱い立場の人を守る犠牲としてその行動を説明する。年齢の差は実際に重要であり、すべてを「よい女/悪い女」の図式だけで説明することはできない。

ただし、主体性があることは、自由な条件で選べたことを意味しない。包囲された人が自ら決断することと、物語が特定の女性を、自己破壊によってしか価値を証明できない位置へ繰り返し置くことは、同時に起こりうる。「本人が選んだ」と「なぜいつも彼女が代償を払うのか」は別の問いだ。両方を保つことで、連帯を認めながら、その配置を批判する余地も残せる。

尊重がいつ現れるかに注目したい。観客は犠牲の前から、彼女たちの人生と欲望を認めているだろうか。それとも、生き延びることを手放して初めて、敬意に値する人として見るのだろうか。死によって尊厳を獲得しなければならないなら、軽蔑を覆す物語にも、周縁化された女性は道徳的模範になってこそ平等な同情を受けられる、という条件が残る。生存権に例外的な善行の証明は要らない。

女性の視点は、見ることの倫理を保証しない

映像美への批判は、画面が美しすぎる、というだけでは十分ではない。美は、暴力が壊そうとする日常や感情、人の具体的な存在を残しうる。暗く粗い映像も、それだけで倫理的に優れているわけではない。重要なのは、画面が観客をどこに置くかだ。女性の恐怖は鑑賞の快楽を中断できるか。女性自身が自分の状況を解釈できるか。それとも他者のための像を提供するだけになるか。

全米監督協会のインタビューで、監督は少女の視点を、残酷さの中の一瞬の詩情と結びつける。その意図を考慮しつつ、少女の視点を借りることと、対象化から離れることは区別したい。登場人物が見ているのと同時に、映画が観客へ別の、所有するような見方を促すこともありうる。

女性の登場時間だけでなく、見る行為が何をもたらすかを追う必要がある。状況への理解が深まるのか、それとも恐怖、欲望、傷ついた身体が消費できる感情へと組み立てられるのか。演技、音、台詞、物語の閉じ方が答えを左右する。批評の側にも注意が要る。倫理的な問題を証明するために被害の細部を繰り返せば、被害者の身体を再び説明用の材料にしてしまう。

救済者として成長できるのは誰か

ミラーには、金に執着する酒浸りの外来者から保護者へ変わる、明確な成長の筋がある。ロジャー・イーバートの批評は、この物語に白人男性の中心が必要なのかと問う。外国人が助けること自体の否定ではない。誰が変化し、行動し、未来を得られるか。誰の消失が、他者の成長を可能にするかという、物語上の機会の配分が問題なのである。

女性の決定と男性の援助は両立する。ミラーの働きはユーモーたちの行動を帳消しにしないし、女性が決断したからといって、スター俳優、視点、結末による重心の移動を検討する必要がなくなるわけでもない。改変を「西洋への迎合」と断定すれば、推測を動機の事実にしてしまう。作品が実際に、誰にどの行動と感情的報酬を与えるかを確かめるほうが、根拠のある批評になる。

歴史資料も、映画が提示する救済の想像を問い直す手がかりになる。イェール大学図書館のミニー・ヴォートリン文書は、日本軍占領下の南京についての記録を伝える。映画と併せて読むことで、英雄の覚醒から、人をかくまい、世話をし、継続して危険を引き受ける労働へ注意を移せる。小説の映画化に歴史上の全員を再現させるためではない。一人の架空の救済者が、当時の女性の働きのすべてを代表するわけではないと知るためだ。

感動のあとに残るもの

犠牲を称賛するか非難するかの二択ではなく、極限での助け合いを認めながら、自己犠牲を女性の価値の最高の証明にしない読み方が必要だ。それは勇気と、生きる権利の両方を守る。連れ去られた女性たちのその後を詳しく描かない映画では、感情的な決着と、彼女たちの運命の未決着との間に隔たりも残る。

『天使は白をまとう』と併せて、保護がいつ「清白」の維持へ変わるのか、暴力のあとにも少女を人生の主体として描けるかを比較できる。上野千鶴子『女ぎらい』は、個人への好き嫌いから、女性を分断する仕組みとそれへの加担を考える入口となる。私たちがたたえる連帯には、犠牲にならず、純潔でもなく、英雄にもならない女性の居場所があるだろうか。

読者の声

対話

鑑賞後の感想や、そこから広がる考えを共有してください。

ディスカッションに参加

コメント

コメントを読み込み中...

サポート

このコンテンツがお役に立ちましたら

FemResを支援