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ウォーターメロン・ウーマン

ブラックフェミニズム · 映画

ウォーターメロン・ウーマン

原題The Watermelon Woman

シェリル・デュニエの架空のアーカイブは、黒人レズビアンの歴史の信頼性を誰が作るかを問い、記録形式、利用料、親密さの人種秩序を結ぶ。

監督
Cheryl Dunye
年
1996
地域
アメリカ
上映時間
84分 · 現行JanusのDCP資料は84分。First Runの周年版は90分、Film Collaborativeは83分。
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アーカイブは二度、生を排除しうる。まず保存せず、次に不在を「何もなかった」証拠にする。シェリル・デュニエの『ウォーターメロン・ウーマン』(1996年)は、創作でこの問題に答える。監督が演じるビデオ店員シェリルは、「ウォーターメロン・ウーマン」としか名の記されない黒人俳優を調べる。追う相手のフェイ・リチャーズは架空の人物であり、その事実を保つことが作品の歴史的介入を支える。

ドキュメンタリーの慣習が探索を信じさせつつ、信じる仕組みを表す。調査、インタビュー、資料が記録の蓄積を約束する一方、演じられた監督の自己像は、調べる人と欲望を抱く人の分離を複雑にする。問われるのは文書の真偽だけでなく、黒人レズビアンの生を認めるために、どの証拠を使えたかである。

歴史の不在には物質的条件がある

2023年のインタビューでデュニエは、イヴ・オオイシの調査で写真が見つかったが、使用権料が制作費を超えたと説明する。自ら記録を作ることは、この障害への応答だった。文書がどこかに存在しても、それを必要とする人に利用可能とは限らない。

不都合な歴史的事実をいつでも置き換えてよいという話ではない。フェイは回復された実在の伝記ではなく、実在の俳優として引用してはならない。創作は回復の条件を検討可能にする。誰が使用可能な画像を所有し、複製や権利を払え、画面で歴史家になれるのか。他人の記録の対象となることとは違う。

デュニエは記録と劇の混合を「Dunyementary」と呼ぶ。手元の道具、機材、人々を使うことや、演じられた現実を観客が信じる仕組みを示す映画との出会いに、その遊びを結ぶ。形式の実験と制作の制約は別々ではない。喜劇的で自己言及的な方法は歴史を軽くせず、重要性を認定する慣習の権威を試す。

クィアな共同体も人種権力の外にはない

調査は、白人女性ダイアナとの関係や友人タマラとの葛藤と並行する。Janusのあらすじも探索と恋愛を結ぶ。誰の欲望に場所があり、誰の判断が退けられ、どの歴史が惹かれ合いを理解可能にするかは、関連した問いである。

クィアの可視性は、親密さや文化機関にある人種的不平等を自動的に取り除かない。周縁化された身分の共有も、愛、表象、過去への合意を保証しない。この状況をフェミニスト的に読むために、人物を模範的な代弁者にする必要はない。対立は連帯の失敗の証拠ではなく、共同体の生活の一部となりうる。

制度が与えなかった過去を創作する喜びにも限界がある。想像は別の歴史を考えさせるが、それだけで失われた記録を返し、利用を保障し、次作の資金を再配分はしない。監督は協働と制度的機会を他者へ渡すことを文化の変化に結ぶ。先駆者として讃えるだけでなく、誰が作り流通させられるかを変える承認が必要になる。

本項は現行JanusのDCP版の84分を採る。First Runの二十周年版は90分で、採用ポスターの出典でもあり、別の配給資料には83分とある。一つの数字を全版へ強いず、流通の違いを残す。修復版ポスターも同じ1996年作品を識別するもので、別作品ではない。

『女性・人種・階級』は制度と黒人女性の労働を別の方法で追う。監督が創作の刺激として語る『塵の娘たち』は、歴史を語る女性の力を世代の時間に置く。架空の資料と家族の記憶の継承は、証拠について同じことを主張しない。その形式の違いを残す併読となる。

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