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フェミニスト障害学 · 研究

障害を脱植民地化する:地球規模で考え、行動する

Decolonising disability: thinking and acting globally

ミーコシャは障害理論の北中心主義と、植民地支配、戦争、汚染、危険な労働を結び、傷害の生産と知識の権威を問い直す。

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研究ガイド

障害学は、学校、職場、公共空間へのアクセスを問いながら、戦争、汚染、危険な労働が傷害を生み続ける過程を視野の外に置いてしまうことがある。ヘレン・ミーコシャの2011年の論文は、この二つの問いを結び直す。批判の対象はアクセスや自立生活の要求ではない。特定の歴史から生まれた要求を、地域も歴史も明示しない普遍的な出発点とすることである。

著者が公開した原論文は批判理論の総合であり、新たな参加者を募ったコホート研究ではない。ミーコシャが問うのは知識の非対称性だ。欧米の研究は場所を示さずに通用し、それ以外の地域は説明を要する特殊例とされる。既存モデルに国別事例を追加しても、問い、概念、妥当な答えを決める権限が変わるとは限らない。

傷害には政治的な地理がある

植民地的な剥奪のもとでは、身体の傷害を生活条件から容易に切り離せない。土地、水、食料、共同体の支えを失うことは、身体と依存関係の双方を変える。先住民の経験は、中心地域の概念を他の社会へ一方的に適用する方法に疑問を投げかける。地域に根ざす知を尊重するとは、伝統を理想化することではなく、解釈する側の立場も明らかにすることだ。

戦争、核実験、汚染の移転、危険な工場も論文を支える例である。ある場所が安い製品を得て、別の場所が有害物質への曝露や労働災害を負うなら、個人の不運では説明できない。アクセスの政治は生産と貿易にも及ぶ。誰が労働から排除されるかだけでなく、誰が傷つく危険のある条件で働くのかを問う。歴史的な事例は、現在の世界の傷害発生率を示す数値ではない。

ここには、障害のある生を肯定することと、回避できる傷害を防ぐことの緊張がある。個人的悲劇という枠組みを退けるために、戦争や搾取による苦痛を避けてよいのか。ミーコシャはそれを問う。暴力や汚染に反対することは、現に障害のある人の生の価値を低く見ることと同じではない。混同すれば、人を傷つけ、その後の支援まで制限する制度が見えなくなる。

フェミニズムの視点からは、危険業務、奉仕的な労働、破壊されたケアのネットワークをたどれる。人種化、ジェンダー化された分担が、曝露や生存をどう左右するのか。ただしこれは論文が開く読解の方向であり、完成したジェンダー分析を著者に帰属させてはならない。著者自身がその複雑さを今後の課題としている。世界的な視野を掲げても、障害女性間の差異はなお残りうる。

また「南」を、一つの文化や常に正しい立場とみなすべきではない。ここでの南は、植民地の歴史、資源管理、知的権威の不平等な関係を指す。あらゆる地域差を植民地主義だけで説明すれば、批判している全体化を繰り返す。現地の支配者やエリートの責任を消すことも、具体的な傷害の説明を弱める。論文の意義は責任を問う範囲を広げる点にある。

ガーランド=トムソンのフェミニスト障害学と合わせれば、身体規範批判を国際的な政治経済へどうつなぐかを考えられる。モハンティの『西洋の眼の下に』とは、他者の暮らしを地域的な資料としながら、自らの立場を普遍理論に隠してしまう知識のあり方を比較できる。

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