データ正義 · 論考
先住民族データガバナンスのCARE原則
先住民族の権限、集団的利益、継続する責任からデータを考える。CARE原則は、公開や個人の同意だけでは決まらない統治の問題を示す。
記事解析
データを見つけやすくしても、誰が利用する権利をもつかは決まらない。2019年9月のCARE Principles for Indigenous Data Governanceは、この違いを研究と知識生産の中心に置く。原文の五ページの推奨引用は、Research Data Allianceの国際先住民族データ主権インタレストグループを名義とし、Global Indigenous Data Allianceを発行の文脈として記す。CAREは集団的利益、管理の権限、責任、倫理を指す。先住民族の自己決定にかかわる相互に結びついた約束であり、関係する人びとから独立してデータベースに備わる四つの性能ではない。
公開と権限は異なる問いに答える
冒頭は、政府や機関が先住民族やその領域について集めた情報も先住民族データの範囲に含める。ある機関がファイルを所持していることだけで、その政治的な権利関係がすべて決まるわけではない。記録は土地、知識、コミュニティを記述しつつ、その当事者の手元にはない場合がある。したがって、研究者がリポジトリのダウンロード条件を守ったかだけでは問題を捉えきれない。
GIDAの説明は、CAREをFAIRの補完として位置づけ、あらゆる共有の拒否とはしていない。FAIRは発見可能性、アクセス可能性、相互運用性、再利用可能性を扱い、CAREはそれらが誰の何の目的に結びつくかを問う。分類、用途、見返りを外部が決めるなら、公開データも不平等な関係を再生産しうる。一方、コミュニティの権限は研究の全面的な阻止ではなく、自ら定める目標に沿う利用を可能にもする。公開と正義は同じ成功指標ではない。
同意は最初の収集で終わらない
管理の権限は、同意を表象と保管・運営に結びつける。ある人が面接に同意しても、そのデータが後に民族をどう定義し、領域をどう記述し、他のアーカイブとどう結合されるかまで自動的に決まるわけではない。個人の許可と集団的統治の違いであり、集団的権利が個人の利益を消すという主張ではない。誰がどの規則で後の利用を決められるのかが問われる。
倫理の項目は、将来の利用と害も統治に含める。メタデータに由来、目的、義務を記すという具体性が重要だ。ファイルの移動とともに利用条件を失ってはならない。応用的な解釈として、自動分析を計画する機関は、その目的が、資料を共有した当初の関係の範囲にあるかを検討すべきだろう。公開ウェブ上で見つかったという事実だけでは答えにならない。原則は、あらゆる紛争を解く普遍的なライセンスや技術試験を与えるものではない。
利益の共有には統治する能力が要る
責任には互恵的な関係、先住民族の言語や世界観への資源、技能と基盤の整備が含まれる。機関は論文を得るが、コミュニティには終了報告会しか残らないという関係が問われる。統治の力は、データを作り、解釈し、守り、異議を唱えるための物質的な能力にも依存する。研究を吟味し、条件を変更できなければ、利益の共有という約束は不十分である。
フェミニズムの観点からは、内部で誰がその権限を行使できるかも問う必要がある。女性、ケア責任を担う人、事情を公にできない人が、会議や技術研修、代表の仕事に等しく参加できるとは限らない。これは適用時に調査すべき問いであり、宣言が測定した不平等ではない。先住民族の自己決定を一般的な利害関係者の参加に還元してはならず、一人の代表者が内部の分岐を解決するとも仮定できない。
フェミニスト・データ・マニフェスト=ノーは、抽出を拒否する必要を問い、デザイン・ジャスティス・ネットワークの原則は事業後の決定権と管理に目を向ける。CAREは先住民族の権利、集団的権限、時間をまたぐ義務を具体化する。歴史と政治的主張を同一視せずに併読することで、情報が元の場を離れた後にも正当な用途を決める力を誰が保つのか、という問いを深められる。
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