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ラテンアメリカ・フェミニズム · 論考

Ni Una Menos:2015年6月3日の宣言

要旨

アルゼンチンの宣言は、拒否する権利を住居、支援、予算と結びつける。女性の決断を持続可能にする制度の責任を問う。

FemRes / 2015年6月3日
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記事解析

「ノー」と言う権利と、その拒否を続けられる条件は同じではない。後者には他者と制度の支援が要る。アルゼンチンの集団Ni Una Menosが2015年6月3日に発表したスペイン語の宣言は、この関係を軸に展開する。フェミサイドを政治的暴力として名づけ、保護の失敗を示し、九つの要求へ進む。共同の悲しみは責任への問いになる。女性が自ら決めたことで危険にさらされないために、何を変えるべきなのか。

拒否の先に生活できる場所を

第一部が批判するのは所有の論理である。男性が女性の身体や選択に権利を持つという考え方だ。性的な慎みの規範、外見への評価、強いられる母性や服従は、拒否が罰される条件とつながる。宣言はフェミサイドを、説明不能な私的悲劇ではなく、社会関係の極端な帰結に位置づける。政治的な命名は暴力の自然化に抗するものであり、あらゆる殺人が同一だという意味ではない。

望まない関係、妊娠、性行為、決められた生き方を拒否する権利を、宣言は肯定する。同時に、自律を情緒的なつながり、社会的支援、国家の援助、政治的活動のなかに置く。離れることや抵抗することは、特に危険な瞬間になりうる。孤立した女性に勇気を求めるのではなく、決断を持続させる仕組みを問う。支援は実際に行使できる自律の一部なのだ。

だから住居とシェルターは、保護命令や司法へのアクセスと並んで重要になる。形式上は離れる権利があっても、住む場所、法的代理、子どもへの支援がないかもしれない。九つの要求はこれらを相互に関連する制度の仕事として扱う。殺害に反対するスローガンだけを読めば、生存と決断を可能にする日常の配置を見落とす。

法律があっても実施条件がなければ

第二部は2009年成立のアルゼンチン法第26.485号を取り上げ、全面的実施、国家計画、予算を要求する。批判が指すのは宣言の2015年当時の状況であり、現在の法やサービスの一覧ではない。公式統計の要求もある。暴力を可視化して数えられるように求めることと、すでにある記録を経験のすべてと考えることは異なる。

申告手続きへの批判は具体的だ。女性に被害申告とその再確認を求め、証拠や証人の確保を全面的に委ねれば、暴力に制度的被害が重なる。司法への道が形式上あっても、不信を再生産し、保護のための労働を求助者へ戻すことがある。研修、手続きの連携、法的代理は、被害者が身につける個人技能ではなく、制度の責任として提示される。

報道にも責任が問われる。服装、交友、性生活を詮索し、私生活を侵し、殺害方法を繰り返し見せる報道を宣言は批判する。公に見えること自体は暴力への抵抗にならない。語り方によって支配が当然視され、苦痛が見世物になることもある。求められるのは暴力について沈黙することではなく、報道のあり方への責任である。

最後の要求には、ジェンダーの視点を持つ性教育、子どもの支援、専門職研修、実施状況の監視も含まれる。警察と司法による保護を求めつつ、フェミサイドを治安問題だけで扱うことは明確に退ける。この緊張を消してはならない。宣言は連携した対応を提案するが、提案の存在は実施の証明ではなく、処罰や国家権力をめぐる対立も解消しない。

Medinaによる創設メンバー三人の語りの研究は、暴力、不安定な生、集団行動の結びつきを問う。宣言は別の種類の資料として、ある時点で集団が何を公に要求したかを示す。イスタンブール条約は、支援、資源、制度責任の法的表現を比較する材料になる。異なる法域と文書形式を結ぶ比較は、直接の影響関係を意味しない。拒否の後も生きられる条件を誰が整えるべきかという問いが残る。

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