エコフェミニズム · 論考
手伝いではなく労働:アグロエコロジーの女性たち
ブラジルの実践者は、女性の農作業を可視化することが、家事責任、融資での評価、集団的活動の時間の変化につながるかを問う。
記事解析
女性の農作業を「手伝い」と呼ぶことは、ほかの誰かを本当の働き手の位置に置く。Vanessa Schottz、Maitê Maronhas、Elisabeth Cardosoの『これは労働であって、手伝いではない!』(É trabalho, não é ajuda!)は、フェミニスト経済学とブラジルのアグロエコロジーにおける女性の自主組織から、その配置を問い直す。『Agriculturas』2015年12月号の48–53頁に掲載された論考は、労働の呼び方を、生産を組織し、グループに参加し、日常の必要を満たす方法を決める実際の権限に結びつける。
著者たちが扱うのは、全国アグロエコロジー連携組織の女性ワーキンググループGT Mulheres da ANAが調整した事業だ。2008年から2012年に、異なる地域の個人・集団による56の経験を体系化した。体系化とは、参加者が経験を振り返り、共有できる知識として組み立てることを指す。56は無作為抽出された女性の人数ではなく、論考もアグロエコロジーの効果を全国的に証明する独立した影響評価ではない。
価値は販売の時点で始まるわけではない
雑誌の原文は、販売に向けた生産労働と、人や家庭を維持する再生産労働を区別する。その目的は両者の序列を問うことにある。料理、食品加工、ケアを必要とする人の世話、自家消費用の食料生産にも労働と資源が必要だ。これらを経済計算から外すと、農場の自給を可能にする実際の労働配分が見えなくなる。
融資は具体的な帰結を示す。著者たちは、女性向けの融資枠が形式的に存在しても、生産の中心が自家消費であるため銀行融資を得にくい状況を述べる。買わずにすむ食料は市場への依存を減らすが、返済能力として十分に評価されるとは限らない。これは歴史的な経験の記述であり、現在の借入案内ではない。家庭を支えるどの営みが、支援すべき経済活動と判断されるかが問われている。
お金が動いても可視性は選別される。女性の所得が衣服、靴、子どもの学用品に使われると、日常の維持に溶け込み、わずかな貢献と扱われることがある。問題は無償労働に価格がないことだけではない。日々の再生産に結びつく仕事と所得が、家の主要な事業とされる貢献より評価されにくいことも含まれる。
グループに参加するには仕事の分担が必要だ
集団的な組織活動は、家のなかでこの序列にぶつかる。リオ・グランデ・ド・スル州のSão José女性グループは、家族の落胆させる態度や、参加を禁じるパートナーについて語る。リオ・グランデ・ド・ノルテ州Mulugunzinhoの参加者は、会議に出かける際に男性が育児を拒んだと述べる。欠席は自信や関心が足りないだけの問題ではない。必要な仕事を分担できるか、参加する人が罰を受けずにすむかに左右される。
論考は挫折だけを描かない。Montes Clarosの農業者Didiは、尊重されるようになったことや、夫と子どもが家事を担うようになった変化を述べる。ほかの語りでも、経験を比べることで不平等を個人の不足だけと考えなくなる過程が示される。参加者の評価であり、記録すること自体が変化を起こした証明ではない。それでも、共同の知識づくりが、手伝う人ではなく農業者という位置を交渉する助けになる理由が見える。
著者たちは、女性の生態学的知識を生得的とする考えを明確に退ける。食料、種子、ケアの技能は社会的な位置と反復される責任から生まれる。その承認は、男性やほかの世代にも学習と分担を求めるものであるべきだ。そうでなければ称賛が専門性を新たな義務に変える。女性の貢献を帳簿へ追加して全作業を任せたままにするのではなく、経済的・政治的自律を性別分業の変化とつなぐ要求なのである。
後年のパラナ州の土地なし農民女性の口述史は、この緊張をさらに具体化する。所得が増えても、生産の追加が組織活動の時間を減らすことがある。異なる設計の調査であり、56の経験と一つのデータに合算できない。本論考が引用するHirataとKergoatの分析は、仕事を承認することと、序列のなかでの位置を変えることを区別する。承認は時間と権限を女性に返すのか、それとも変わらない負担をより好ましい名で呼ぶだけなのかを、併読によって問える。
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