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世界の終わりのキノコ

資本主義批判 · 書物

世界の終わりのキノコ

原題The Mushroom at the End of the World

著者Anna Lowenhaupt Tsing

アンナ・ツィンがマツタケの生態と供給網をたどり、戦争、移住、資本が不安定な生計をどう形づくるのか、損なわれた景観で生命がどう続くのかを考察する。

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書評と読書案内

マツタケと「気づく」技法

アンナ・ツィンの『世界の終わりのキノコ』は、自然の中に慰めを見つける本ではない。工業伐採によって森が作り変えられ、安定した雇用が失われるとき、どのような生命が他者への依存を通して続いていくのか。より厄介な問いを投げかける。ツィンはマツタケを追い、オレゴン、日本、中国雲南、フィンランドをめぐる森、菌類、松、火、採集者、林業科学、商人、贈答市場をひとつの変化し続ける図に結び合わせる。マツタケは「自然が資本主義に勝つ」ことの象徴ではない。人間の攪乱は生命を壊すと同時に、新たな生息条件を生み出すこともある。そして、その帰結を単独で支配できる主体はいないことを示す。

本書では形式そのものが議論の一部を担う。短い章、間奏、写真は、危機から解決へ進む一本道を作らない。互いに響き合いながらも、完全には重ならない声を立ち上げる。ツィンが「ポリフォニー」と呼ぶこの方法は、差異を一つの一般則に押し込めず、種、場所、歴史ごとのリズムが、ときに協調し、ときに衝突する様子に注意を向ける。序文によれば、本書は2004年から2011年にかけて複数のマツタケ採集期に行われたフィールドワークと、Matsutake Worlds Research Group の共同研究に基づく。写真は文章の場面をそのまま図解するのではなく、文章と並行する観察として置かれている。「気づく」とは曖昧な善意ではなく、進歩の物語が見落とした関係を観察し、それがどのように形成されたのかを問う研究実践だ。

採集の自由から供給網の蓄積へ

ツィンが「Open Ticket」と名づけたオレゴンの採集キャンプは、本書でもとりわけ鮮明な社会的場面だ。採集者は自分で森を歩き、採ったキノコを競争相手でもある買い手に売る。変動する価格や買い手同士の競り合いは、上司に命令されない自由を感じさせる。しかし、ツィンはそれを誰もが等しく選べる自由として描かない。白人のベトナム戦争帰還兵、ミエン族やモン族を含む東南アジア難民、日系アメリカ人、ラテン系採集者は、戦争、移住、人種化、市民権をめぐる異なる歴史を背負って森に入る。慣れ親しんだ景観に戻るために採る人、共同体を保つために採る人、身体の自由を取り戻そうとする人がいる一方、在留資格の不安定な移住者は法執行や国外退去を避けなければならないこともある。同じ採集地にいるからといって、自由の条件まで同じではない。

「サルベージ蓄積」(salvage accumulation)は、より大きな市場がこうした関係から価値を取り込む仕組みを捉える。資本は森の生態、家族の生計、採集の一つひとつを自ら管理しなくても、それらの関係が生み出す価値を商品へ変換できる。採集者にとって探索の「戦利品」であるマツタケは、買い取り、選別、輸出を経て、日本で在庫として分類される。その後、高価な贈り物となって人間関係を結び直すこともある。供給網は、場所固有のキノコをいったん標準化された資産へ変え、さらに関係を帯びた贈答品へと移す。ツィンの主張は、資本主義がこれらの世界の外部にあるということではない。供給網が社会的・生態学的な多様性を資本蓄積の形式へ翻訳する点にある。概念の詳しい説明は、ツィン自身によるサルベージ蓄積論にも示されている。

この供給網は、フェミニズムの問いを具体化する。市場を支えながら、正式な労働として数えられないのは誰の暮らしだろう。採集を冒険や自由として語れるのは誰で、家事やケアを同時に担うのは誰なのか。本書には女性の採集者、家族、共同体も登場するが、戦争経験やキャンプでの自由を語る場面では男性に焦点が集まることが多い。読者は、ジェンダー化されたケア労働が自立して見える生計をどのように支え、その労働がなぜ蓄積の帳簿に現れにくいのかをさらに問える。これは読解を広げる問いであり、ツィンがこの問題を体系的に解決したという意味ではない。

森は背景でもユートピアでもない

第三部では、森そのものへ視線が移る。マツタケと松の関係は、土壌、光、火、他の菌類、人間の管理に左右される。日本の里山では、選択的な伐採など小規模な手入れが松の生育環境を保つことがある。対照的に、オレゴンでは工業伐採と長期にわたる火の排除が、どの樹種が繁茂するかを変えた。ツィンはまた、アメリカ政府による先住民の土地からの排除と、先住民の野焼きの実践が抑圧された歴史をたどる。後に「空地」や「過密」と呼ばれる景観も、すでに政策と暴力によって形作られていた。森の再生とは手つかずの自然への回帰ではなく、攪乱の歴史の中で新しい関係が生まれることだ。日本、アメリカ、中国、フィンランドの比較は、「持続可能な」林業に場所を超えた万能の処方箋がないことも示す。同じ採取や介入であっても、生態と統治の歴史によって結果は異なる。

こうした観察は、結果を美化することを求めない。マツタケ採集は収入と人が集う場所をもたらすが、賃金、福利厚生、翌年も収穫できる保証はない。「協働的な生存」が土地権、人種差別、国家権力、市場支配を自動的に解消するわけでもない。不確実性を叙情的に描くことで、危険を負わされた人々がたくましく見える一方、誰が利益を得て、誰がケアを担い、誰がその場を離れられるのかが見えにくくなる危険もある。廃墟の中で生命が思いがけない関係を作ることと、その関係が公正ではないことを、同時に考える必要がある。

フェミニスト環境思想の異なる歴史的地図と照らして読むなら、『世界を織りなおす』がよい比較相手になる。複数の著者によるエコフェミニズムのアンソロジーであり、ジェンダー、自然、権力を結ぶ異なる議論を比べられる。この組み合わせは編集上の読書案であり、両書に直接の影響関係があるという主張ではない。

Princeton University Pressの書誌情報 第1章抜粋

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