
トランス研究 · 書物
トランスジェンダー研究リーダー
原題The Transgender Studies Reader
五十篇の論考を通じ、医学・法制度による分類、フェミニズム内部の論争、知識を生み出す主体と英語圏の限界を描くアンソロジー。
書評と読書案内
スーザン・ストライカー(Susan Stryker)とスティーブン・ウィトル(Stephen Whittle)が編んだ『トランスジェンダー研究リーダー』は、五十篇のテキストを通じて、ジェンダーをいかに知るのかをめぐる学問分野の論争を記録する。全七部は、性科学・医学・科学から、フェミニズムの論争、クィア政治、アイデンティティとコミュニティ、トランス男性性、身体性、そして「複数の交差:ジェンダー、国籍、人種」へと進む。本書は一つの理論を一貫して論証する専門書でも、すべての著者が共有する立場表明でもない。編集上の構成そのものが重要だ。ジェンダーの多様な生を症例や説明対象として扱ってきたテキストが、トランスの人々が経験を記述し、分類に異議を唱え、理論を生み出す文章と並ぶことで、学問分野が発見だけでなく対立を通じて形づくられる過程が見えてくる。
この配置は、初期の医学・法制度の資料の読み方も変える。臨床的な分類は科学の言葉で書かれているからといって中立的な記述になるわけではない。それは、どの経験を理解可能なものとし、誰にどの治療を認めるかを決める力を持つ制度に属している。一方、そうした記録は権威がどのように築かれ、働いてきたかをたどる史料でもある。トランスの人々による自伝や政治的な文章と読み合わせると、記録はそのまま受け入れるべき結論ではなく、批判的に読み直せるアーカイブになる。本書は「誤った医学」から「正しい理論」へと一直線に進歩した物語を語らない。専門制度によって記述されてきた人々が、その制度を読み解く側、知識をつくる側へとどう加わったのかを問う。
ストライカーの序論「(De)Subjugated Knowledges」は、フーコーの「従属させられた知」という議論を、トランスジェンダー研究における知識と権力の問題へと結びつける。彼女は、制度的な記述のなかに埋もれた歴史的資料と、学問・科学の序列によって理論性や正当性を欠くものとされた地域的・身体的な知という、関連しながらも異なる二つの知を区別する。前者を掘り起こすには精密なアーカイブ研究が必要であり、後者を真剣に受け止めるには、トランスの人々が自らの身体経験や自分たちに作用する制度について持つ知を、政治分析に不可欠なものとして扱わなければならない。ストライカーは、一人称の経験が他の知より自動的に優れていると主張するのではない。臨床家、歴史家、理論家を含むすべての話者に、自らの位置を明らかにし、特定の視点を普遍的な真理として装わないよう求める。フェミニズムにとって、これは既存の理論に証言を付け足すだけのことではない。誰が問いを設定し、誰の経験が証拠とされ、専門知が他者に作用する制度的位置を認識できるのかを問う。ストライカーの序論は、身体性、学術実践、コミュニティの知を通じてこの議論を展開する。
「フェミニズムの関与」の部は、トランスの人々をフェミニズムから排除することの代償を、抽象論にとどめない。目次では、ジャニス・G・レイモンド(Janice G. Raymond)「手術でつくられたサッフォー」の抜粋が、キャロル・リデル(Carol Riddell)による『トランスセクシュアル・エンパイア』批判、ルー・サリヴァン(Lou Sullivan)の「ある女装者からフェミニストへの返答」の近くに置かれる。同じ部には、ジェンダー論を展開するスーザン・ケスラーとウェンディ・マッケナ、フェミニズムとトランス理論は「同じ側に立つ二つのチームか」と問うスティーブン・ウィトルも収められている。この順序は、各テキストの説得力が等しいとか、収録が賛同を意味すると主張するものではない。誰が「女性」を定義するのか、身体の完全性をめぐる誰の説明が権威を持つのか、連帯の名のもとでフェミニズムが本来耳を傾けるべき人々をどう排除するのか――その対立を記録に残す。敵対的な言説を記録することと、それに最後の発言権を与えることは同じではない。
サンディ・ストーン(Sandy Stone)の「帝国の逆襲:ポストトランスセクシュアル宣言」は、この対立が制度の内部でどう働くかを具体的に示す。ストーンは本人公認の論考で、臨床現場のゲートキーピングが、当事者に期待される自己物語をどのように形づくるかを検討する。診断基準は、すでに完成したアイデンティティに外から適用されるだけではない。受診者は医療者がどのような語りを適切と判断するかを知り、その自己表現が、客観的とされる基準に影響を返していく。ストーンはこの循環を、ジェンダー経験を医学的権威に理解可能なものとして示すために形づくられる自伝的な語りと結びつける。ここでのフェミニズムの問いは、個人の証言が十分に真正か、専門知に取って代われるかではない。権力はいかに「適切な物語」の形を決め、ケアや承認をその語り方に結びつけるのか、という問いである。この論考は、制度的分類への批判を、物語と理論の生産に接続する。
最後の「複数の交差」の部は、ジェンダーが人種、国籍、文化を離れて同じ形のまま流通するわけではないと示す。目次には、トランス理論による人種的周縁化の危険を論じるカトリーナ・ローエン(Katrina Roen)、「第三のジェンダー」という概念を再考するエヴァン・トールとリン・M・モーガン(Evan B. Towle and Lynn M. Morgan)、香港アクション映画のトランスジェンダー的主体を読むヘレン・ホク=シー・レオン(Helen Hok-Sze Leung)、トランス包摂をめぐる論争に潜む人種差別を論じるエミ・コヤマ(Emi Koyama)、承認の政治を扱うリチャード・ジュアン(Richard Juang)の論考が並ぶ。題名だけでも、分析概念が記述対象を周縁化したり、翻訳したり、組み替えたりしうるという異なる問題が見える。ストライカーの序論は、地域ごとに形成されたジェンダーの生を一つの西洋的分類に回収すれば、植民地主義的な分類の力を反復しかねないと明示する。したがってフェミニズムの課題は、文化ごとの例を集めて「どの社会にも同じアイデンティティがある」と証明することではない。それぞれの言葉と社会的位置がどのような歴史から生まれ、誰によって用いられ、翻訳によってどの歴史が見えなくなるのかを問うことにある。
本書を薦める際には、編者自身が認める限界も残しておく必要がある。編者は初期の性科学・フェミニズムの重要作を選び、そのうえで「トランスジェンダー」という語に賛否を問わず明示的に取り組む英語のテキストに焦点を絞り、世界各地のジェンダー多様性を網羅する試みは避けた。ストライカーは、その選択によってメキシコシティとブラジル、アルゼンチン、東南アジアのジェンダー多様性を扱う重要な地域研究が収録から漏れたと記している。また、学術分野における、しばしば見えにくい白人性と、有色人種の研究者による貢献の相対的な少なさも課題として挙げる。最後の一部があるからといって、これらの欠落が解消されるわけではない。本書は、歴史的に重要で、自らの境界も問い直す英語圏の学問形成史として読むのが適切であり、世界のトランスの生を網羅する記述でも、現在の研究動向を示す概説でも、地域に根差した研究の代替でもない。
まずストライカーの序論を読み、その後は一つの論争を軸に各部をたどるとよい。制度的分類とストーンの応答、フェミニズム内部の論争とトランスの書き手による応答、あるいは最後の部に集められた人種と地理の問いが入口になる。さらに第二巻『トランスジェンダー研究リーダー 2』と並べれば、学問分野の地図がどう変わるかを比較できる。第二巻は探究を続けるための道筋であって、第一巻のあらゆる欠落を最終的に修正するものではない。書誌情報と目次はラウトレッジおよびウェルカム・コレクションの所蔵記録で確認できる。
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