先住民フェミニズム · 上映
コミュニティ・フェミニズムとは何か――女性への暴力をなくすために
アイマラのフェミニスト思想家フリエタ・パレデスが、家父長制を歴史的な関係として捉え、共同生活や身体、コミュニティから変革を考える。
鑑賞ノート
メキシコ国立自治大学(UNAM)社会福祉学部の講演で、Julieta Paredes Carvajal は、女性への暴力を日常生活の組み立て方から切り離せないとき、コミュニティ・フェミニズムとは何を意味するのかと問いかける。ここで提示されるのは、そのまま各地へ移植できる定義ではない。Paredes はアイマラの政治的実践、ボリビアや Abya Yala に根ざした議論から語る。個人の解放というイメージから、身体、コミュニティ、土地を横断する関係を変える仕事へと、フェミニズムの焦点を移していく。
講演の軸の一つは、家父長制を、私的な偏見の集まりでも、女性と男性の自然な対立でもなく、搾取・支配・統制の構造として捉えることだ。この視野では、暴力は目に見える出来事の瞬間に始まり、そこで終わるわけではない。労働、権威、資源の不均等な配分や、誰が身体と土地を決められるのかを定める日常の実践によって持続する。Paredes は、こうした関係が男性や自然にも及ぶと述べる。そのため政治的変革は、支配する側の人を入れ替えるだけでは足りない。支配を可能にする関係そのものを変えなくてはならない。
「コミュニティ」という言葉も批判的に扱われる。そこは階層のない純粋な場所でも、手を加えず保存すべき伝統でもない。共同体には対立や不平等があり、それをロマン化すれば女性の経験はかえって聞き取られにくくなる。Paredes の議論でコミュニティは、共に生きる仕組みを再構築する政治的な方向であり、関係の実践である。その際、誰が働き、誰が決定し、誰が生活の費用を負うのかを問う。この緊張関係から、講演はリベラルな個人主義と、先住民のアイデンティティを固定する本質主義の双方を批判する。
FemRes にとって、この映像は理論が作られる場所を見せる点でも重要だ。アイマラの思想家は普遍的なフェミニズム理論を適用される「ローカルな事例」ではなく、自らの経験を通じて政治概念を形づくる主体として登場する。ただし、一人の話者がすべての先住民族を代表するわけでも、コミュニティ・フェミニズムに唯一の形があるわけでもない。Paredes が提案する関係や分析の尺度に耳を傾け、それらが他の植民地主義、土地、運動の歴史とどう対話し、どこで摩擦を生むのかを考えたい。UNAM のイベント紹介で講演の機関的背景を確認できる。あわせてラテンアメリカの先住民女性に関する報告と論集運動するフェミニズムを読むと、地域の複数のフェミニズムが見えやすくなる。
講演と背景
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