
エイジズムとジェンダー · 書物
ハグ(老妖婆):中年女性の悪魔化
原題Hags: The Demonisation of Middle-Aged Women
フェミニスト・ライターのグロスウィッチ(Glosswitch)による、40代以上の女性がなぜほぼすべての人を激怒させるように見えるのかを探求した鋭い一冊。アイデンティティ政治の時代において、中年女性は偏執的で特権意識が強く、道徳的に劣った存在として描かれている。スミスは歴史を辿り、なぜこの特定の形態のミソジニー(女性嫌悪)が今日これほどまでに蔓延しているのかを明らかにしている。2023年ネロ・ブック・アワード(Nero Book Awards)ノミネート作品。
書評と読書案内
40歳を過ぎた女性の何が、ほぼすべての人を激怒させるのでしょうか。ここ数年、アイデンティティ政治が定着するにつれ、中年女性は道徳的に劣った存在、すなわち偏執、特権、利己主義の象徴として語られ、無視され、同情され、あるいは虐待される対象となっています。『ハグ(老妖婆)』の中で、ヴィクトリア・スミスは、なぜこれらの女性がこれほどまでの能動的な軽蔑を持って扱われるのかを問い直します。各章では、ケア労働、美、暴力、政治組織、性といった異なるテーマを取り上げ、中年女性の信念、身体、歴史、そして選択との関連性を探求しています。スミスは、自身が描写する態度を歴史を通じて辿り、この種のミソジニー(女性嫌悪)がなぜ「今」これほどまでに特有の形で現れているのか、その理由を探ります。その結果、非常に吸収力があり、洞察に満ち、機知に富んだ、まさに今の時代に必要な一冊が誕生しました。
ヴィクトリア・スミス(ペンネーム:Glosswitch)は、ドイツ文学の博士号を持ち、特にロマン主義やダークな童話に関心を持つ英国のフェミニスト・ライター兼コメンテーターです。彼女は、中年女性のフェミニスト的経験に焦点を当てた、広く読まれているニュースレター「The OK Karen」を創設しました。彼女の文章は『The Critic』誌に定期的に掲載され、女性問題、育児、メンタルヘルスを探究しているほか、『ニュー・ステイツマン』、『インディペンデント』、『UnHerd』などのメディアにも寄稿しています。デビュー作である『ハグ(老妖婆)』は2023年のネロ・ブック・アワード(Nero Book Awards)の最終候補に残り、2作目の『アンカインド(不親切な/Unkind)』では「親切であれ(Be kind)」という言説がいかに女性差別を定着させているかを検証し、2025年2月に出版されました。スミスはチェルトナムに住んでおり、彼女のTwitterアカウント(@glosswitch)は、鋭いフェミニスト的な論評で知られています。
「ハグ(Hag/老妖婆)」という言葉自体、呪いであると同時に歴史の証人でもあります。中世および近世ヨーロッパにおいて、年配の女性、特に独立心が強く、自説を持ち、伝統的な知識(産婆術や薬草学など)を持っていた女性たちは、しばしば魔女として告発され、迫害されました。「ハグ」とは、従順ではない年長の女性に対する家父長制の不名誉なレッテルです。若く美しくもなく、生殖価値も持たなくなった彼女たちは、男性主導の社会において「有用性」を失い、嘲笑され、恐れられ、排除されるべき対象となったのです。スミスはこの卑蔑的な言葉を奪還し、現代のミソジニーを分析するためのレンズとして使用し、中年女性が直面している特別な形態の抑圧が新しいものではなく、古代のパターンの現代版であることを明らかにしています。
スミスの核心的な主張は、現代のアイデンティティ政治や進歩的な言説において、中年女性、特に白人中産階級の中年女性が「諸悪の根源」として構築されているという点です。彼女たちは人種差別の権化としての「カレン」であり、トランスジェンダーの権利に対する最大の障害である「TERF(タフ/トランス排除的なラジカル・フェミニスト)」であり、交差的(インターセクショナル)フェミニズムの敵である「白人フェミニスト」であり、進歩を阻む反動的な既得権益層(エスタブリッシュメント)であると見なされています。この悪魔化は、保守派や明らかなミソジニストからではなく、自称「進歩的」「左派」、あるいは「フェミニスト」のグループから来ているのです。これが事態をより狡猾で、反論しにくく、有害なものにしています。
ケア労働の章で、スミスは残酷なパラドックスを分析しています。中年女性はしばしば家庭や社会のケアシステムの柱であり、子供、高齢の両親、病気の配偶者を世話し、看護や教育といった低賃金のケア専門職の大半を占めています。しかし、この労働は当然のことと見なされる一方で、彼女たち自身は共感性やケア能力に欠けていると断じられます。「カレン」というステレオタイプはこの矛盾を体現しています。利己的で要求が多く、特権意識を振りかざし、常に「責任者を呼べ」と言う中年白人女性。しかしスミスは、この不名誉なイメージが現実を覆い隠していると指摘します。いわゆる「カレン」的な振る舞いの多く(子供の権利を主張する、劣悪なサービスに不満を述べる、公共の場での安全を維持しようとするなど)は、実際には構造的な不平等の中で自分自身や他者のために基本的な尊重を確保しようとする女性の努力なのです。
さらに狡猾なことに、「カレン」という嘲笑は、女性の正当な懸念を「表現不可能」なものにします。もし女性がセクシュアルハラスメントや人種差別、あるいは何らかの不正について訴えれば、彼女は「カレン」というレッテルを貼られ、その訴えの正当性が剥奪されるかもしれません。このメカニズムは、特に中年女性の口を封じるのに効果的です。なぜなら彼女たちはすでに文化的に周辺化されており、若い女性が持つ「性的魅力(デジャラビリティ)」という社会関係資本も、高齢女性が持つ「無害なおばあちゃん」という免除特権も欠いているからです。中年女性は可視性の最低点に位置しており、彼女たちの声は最も無視されやすく、彼女たちの懸念は最も嘲笑されやすいのです。
美の章で、スミスは中年女性と老けゆく身体との複雑な関係を探求します。女性の価値を若さと美しさと同一視する文化において、加齢は女性にとって存在に関わる危機です。しわ、白髪、体重増加、皮膚のたるみ。これら自然な加齢の兆候は、女性においては「失敗」と見なされ、隠蔽や修正、あるいは羞恥心を要求されます。美容業界、整形外科、「アンチエイジング」業界はすべて、女性の加齢への恐怖の上に成り立っています。中年女性は不可能な選択を迫られます。もし若々しい外見を維持しようとすれば(染髪、メイク、美容整形)、彼女たちは「若作りの痛々しい女(mutton dressed as lamb)」、虚栄心が強く、絶望的だと嘲笑されます。一方で、自然な加齢を受け入れれば、「女子力が低い(let themselves go)」、もはや見る価値も欲望の対象とする価値もない存在であると見なされるのです。
しかしスミスは、これが単に個人の選択や自尊心の問題ではなく、構造的な問題であると指摘します。女性の加齢に対する恐怖や嫌悪は、家父長制資本主義の中に深く組み込まれています。女性の価値は性的魅力や生殖能力と密接に結びついており、これらが失われたと見なされると、女性は「無用」となるのです。これが、中年女性の可視性がなぜこれほど低いのかを説明しています。彼女たちはもはや凝視の対象として適合せず、文化的に「消去」されても構わない存在となるのです。同時に、この不可視性は両刃の剣でもあります。抑圧(無視され、周辺化される)であると同時に、潜在的な解放(男性の凝視という暴政から解放され、もはや誰かを喜ばせる必要がない)でもあります。スミスはこのパラドックスを認めつつも、それをロマンチックに描くことは拒否します。不可視性は女性が「享受」すべきものではなく、挑戦すべき不公正であるべきだからです。
暴力についての章は、本書の中で最も衝撃的な部分の一つです。スミスは、特にオンライン上での中年女性に対する特有の形態の暴力や脅迫を記録しています。中年女性、特にフェミニスト的な見解をあえて表明する女性たちがソーシャルメディアで発言すると、彼女たちは大規模な憎悪、脅迫、嫌がらせに直面します。これらの攻撃はしばしばジェンダーと年齢の二重の側面を持ち、「醜い年増のビッチ」「期限切れの女」「レイプされるべき老いぼれのハグ(妖婆)」などと呼ばれます。攻撃者の中には自称進歩派やフェミニストも含まれており、彼らは中年女性が基本的な尊重や安全を受けるに値しないと考え、彼女たちの見解を暴力的に封じ込め、彼女たちの身体を想像の中で侵害しても道徳的に許容されると信じているかのようです。
さらに悪いことに、これらの女性たちが受けた虐待を報告しても、しばしば真剣に受け止められません。警察やプラットフォーム、さらには一部のフェミニスト団体までもが、中年女性に対する脅迫を無視あるいは軽視し、それを真の暴力の脅威ではなく「オンライン上の喧嘩」として片付けることがあります。これは、文化的な価値階層において中年女性の命と安全が低く位置づけられていること、また、もしこれらの女性が不人気な見解(ジェンダーアイデンティティ政治への疑問など)を表明していれば、彼女たちは攻撃を受けて「当然」だと見なされるためです。スミスは鋭く指摘します。特定の女性に対する暴力の容認と正当化は、進歩的な政治の中に潜む深いミソジニーを露呈させているのだと。もしあなたが「正しいタイプ」の女性でなければ、あなたの安全はどうでもいいというわけです。
政治組織の章で、スミスはフェミニスト運動や左派政治における中年女性の周辺化を分析しています。中年女性はしばしば草の根組織のバックボーン(時間、経験、スキル、ネットワークを持っている)でありながら、その貢献は頻繁に見過ごされ、あるいは過小評価されます。多くの進歩的な場では、若さや多様性、「クールさ」が崇拝される一方で、中年女性、特に白人中産階級の女性は、時代遅れで保守的、革新を阻む存在として見なされます。彼女たちは無償の事務的労働をすることは許されますが、リーダーシップを発揮したり、運動の「顔」として代表したりすることは許されないこともあります。
スミスはまた、交差性(インターセクショナリティ)理論が実践において、どのように特定の女性を周辺化するために利用されているかも探究しています。分析ツールとしての交差性は、異なる形態の抑圧が絡み合っていることを認識するために重要かつ必要ですが、一部の文脈では、それが「抑圧の序列」へと矮小化されています。特定のアイデンティティ(白人、中産階級、シスジェンダー、ヘテロセクシュアル)を持つ人々は、潜在的な同盟者や共に抑圧されている者としてではなく、自動的に「抑圧者」として見なされてしまうのです。中年白人女性はこの階層において厄介な立場にあります。女性としてジェンダー抑圧に直面している一方で、白人で中産階級、シスジェンダーであると(潜在的に)見なされるため、特権階級と見なされるのです。この複雑さはしばしば次のように単純化されます。彼女たちの特権は抑圧を上回っており、ゆえに彼女たちのフェミニスト的な懸念はどうでもよく、むしろ疑わしいものである、と。
スミスは特権の存在や交差的分析の重要性を否定しているわけではありませんが、この分析が特定の女性の口を封じるためにどのように武器化されているかを疑問視しています。彼女は、中年女性、たとえ白人や中産階級であっても、依然として家父長制の下で暮らし、女性差別や性暴力の脅威、経済的不平等(ジェンダー賃金格差は年齢とともに拡大します)、ケアの負担に直面していると指摘します。彼女たちの具体的な抑圧の経験を無視して単に「特権的」と分類することは、単純化であり不公正です。さらに重要なことに、このやり方は女性たちを分断し、共通の経験に基づいた連帯を妨げてしまうのです。
性に関する章は、スミスがトランスジェンダーをめぐる議論に直接触れているため、おそらく最も物議を醸す部分でしょう。彼女は、一部の中年女性、特にセルフID(自己認識に基づく性別の決定)理論(すなわち「自分は女性だと認識する人は誰でも女性である」という考え方)に疑問を呈する女性たちが、「TERF」というレッテルを貼られ、攻撃されている現状を記録しています。スミス自身はいわゆる「ジェンダー・クリティカル(性別を重視する)」の立場に立っています。彼女は生物学的性別が重要な物質的現実であり、生物学的性別に基づいたカテゴリーとしての「女性」には特定の権利とニーズがあると考えています。この立場は現代の進歩的な政治において極めて議論を呼ぶものであり、しばしば激しい非難やプラットフォームからの追放(デプラットフォーム)につながっています。
スミスの主張は、トランスジェンダー問題に対する個人の立場がどうあれ、これらの問題について懸念を表明した中年女性が直面する特有の憎悪や暴力は、それ自体がミソジニーの現れであるという点です。彼女は、中年女性が性別に基づいた権利(シングルセックスの空間や女子スポーツなど)について議論すると、彼女たちは偏執的で憎悪に満ちた「時代遅れの老妖婆」として描かれる一方で、同じ見解を表明する若い女性や男性は、それほど過激な反応を受けないことに気づいています。これは、これらの女性への攻撃が単に彼女たちの見解に対するものではなく、「誰が見解を持つことを許されているか」に対する攻撃であることを示唆しています。文化の中で最も価値の低いグループの一つである中年女性には、これらの議論に参加する権利がないと見なされているのです。
スミスは特に、「TERF」というレッテルがどのように使用されているかに焦点を当てています。もともとは「トランス排除的なラジカル・フェミニスト」を指す言葉でしたが、実際には、トランスジェンダー運動のいくつかの側面に疑問を持つすべての女性に適用可能な、広範な不名誉のレッテルと化しています。彼女たちの実際の見解がいかに繊細であるか、あるいは彼女たちが実際に「ラジカル・フェミニスト」であるかどうかは関係ありません。さらに重要なことに、このようにラベルを貼られた女性はしばしば暴力の脅迫や社会的排除の対象となり、彼女たちの見解は議論する価値がないと見なされ、彼女たち自身も人道的に扱われる価値がないと見なされてしまいます。スミスは、この「去人性化(人間性を奪うこと)」は、歴史的な「ハグ(老妖婆)」の悪魔化と直接地続きであると主張します。特定の女性を邪悪で危険な存在として構築することで、道徳的な懸念を抱くことなく攻撃できる対象に仕立て上げているのです。
スミスは読者に対し、自身のトランスジェンダー問題に関するすべての立場に同意することを求めているわけではありません。しかし彼女は、これらの立場を持つ中年女性に向けられる特有の憎悪自体が問題であり、ミソジニーとエイジズム(年齢差別)の交差として理解されなければならないと指摘しています。彼女はまた、攻撃を受けている女性たちの多く(レズビアン・フェミニスト、性暴力のサバイバー、長年女性の権利に尽力してきたアクティビストなど)が、自身の脆弱性や周辺化の経験を持っていることも指摘しています。彼女たちを単に「特権を持つ抑圧者」として描くことは、彼女たちの生きる現実を歪めてしまうのです。
全編を通じて語られる大きなテーマは、フェミニズムにおける「代際間の対立」の現れです。スミスは、中年女性への攻撃の多くが若い世代、特に若いフェミニストから来ていることを観察しています。これは部分的には、若い世代が前の世代の考え方と差別化を図り、自身のアイデンティティを確立しようとする自然な代際間の緊張を反映しています。しかしスミスは、フェミニズムにおいてはこの緊張が特有の形で武器化されていると論じます。若いフェミニストは時に、前の世代のフェミニストを「時代遅れ」「保守的」「間違っていた」と描写し、それゆえに乗り越えられるべき、あるいは切り捨てられるべき存在として描きます。この態度は、部分的に家父長制の歪んだ鏡を反映しています。家父長制が「年老いた女性には価値がない」と教えるのと同様に、若いフェミニストも時にその価値観を内面化し、自身の「新しい」「進歩的な」ものを前の世代の「古い」「反動的な」ものと対立させてしまうのです。
しかしスミスは、この対立は「自己破壊的」であると指摘します。フェミニスト運動には、代際間の継続性と知識の伝達が必要です。前の世代のフェミニストの経験や洞察は、たとえすべての結論に同意できないとしても、貴重なリソースです。彼女たちを単に「悪い例」として拒絶することは不公正であるだけでなく、運動から歴史的記憶や戦略的知恵を奪ってしまいます。さらに重要なことに、今日の若いフェミニストが中年フェミニストを嘲笑し攻撃するとき、彼女たちは自分自身の未来に罠を仕掛けているのです。なぜなら彼女たち自身もやがて年を取り、次の世代から「時代遅れ」「反動的」として見られる対象になるからです。ミソジニーの狡猾な点の一つは、女性たちが共通の抑圧に対して団結するのではなく、互いに対立するように仕向けることなのです。
スミスの文体は、本書の大きな強みです。学者としての厳密さと深さ、アクティビストとしての情熱と緊迫感、そしてコメンテーターとしての機知と風刺を兼ね備えています。彼女は複雑な理論的概念を具体的な日常の経験と結びつけることができ、それによって本書を知的な深みと感情的な共鳴を併せ持つものにしています。彼女は困難な、あるいは物議を醸すトピックを避けることはありませんが、その扱いは繊細で公正であり、強い見解を表明するときでさえ、複雑さや曖昧さを認めています。彼女のユーモアは軽薄なものではなく、不条理や苦痛に対処するための戦略です。現実があまりにも憂鬱なとき、それを嘲笑することは正気を保つための一つの方法となり得るのです。
本書のタイムリーさは否定できません。2020年代初頭、多くの西洋諸国は激しい「文化戦争」を経験しました。そこでは、フェミニズム内部の分断(特にトランスジェンダーの権利、性風俗、代理出産などをめぐるもの)が極端に二極化しました。中年女性、特に「ジェンダー・クリティカル」と見なされる女性たちは、格好の攻撃対象となりました。同時に、ソーシャルメディアのダイナミクスはこの対立を激化させ、繊細な議論をレッテル貼りや罵倒へと貶め、異なる見解を持つ人々を理解するのではなく悪魔化する状況を生じさせました。スミスの著書はこの動向への介入であり、繊細さ、同理心、そして歴史的意識を回復しようとする試みです。
『ハグ(老妖婆)』は2023年のネロ・ブック・アワードの最終候補に残りました。この承認は、本書の文学的・知的質と、それが触れている問題の重要性を反映しています。ネロ・ブック・アワードは「小説の境界を広げる」作品に焦点を当てていますが、『ハグ(老妖婆)』は非虚構(ノンフィクション)作品でありながら、個人的なナラティブ、社会評論、歴史分析、そして理論的考察を革新的な方法で融合させており、まさにノンフィクション執筆の境界を押し広げています。
日本人読者にとって、本書は現在の西洋フェミニズムの議論を覗く窓となると同時に、普遍的な関連性を持っています。具体的な政治的・文化的背景は異なっても、中年女性の価値の低下や周辺化は文化を超えた現象です。日本における「行き遅れ」言説や、中年女性を揶揄するような蔑称、女性の加齢に対する社会的な不安や恐怖は、すべて同様のミソジニーとエイジズムを反映しています。中年女性への軽蔑を家父長制、資本主義、エイジズムの交差として理解するスミスの分析枠組みは、日本の現象を理解する一助となるでしょう。
同時に、本書はフェミニスト運動内部の権力関係や排除のメカニズムに注意を向けるよう私たちに促します。いかなる運動においても、「誰の声が聞こえているか」「誰の懸念が優先されているか」「誰が『本物の』メンバーと見なされているか」という問いが存在します。スミスは、私たちが反対しようとしている抑圧のパターンを、自分たちが再生産してしまわないよう警鐘を鳴らしています。彼女は、フェミニズムは誰が「より正しいか」や「より進歩的か」を競う排他的で階層的なものではなく、共通の経験と連帯に基づいた、包摂的で代際間をつなぐものであるべきだと訴えています。
結局のところ、『ハグ(老妖婆)』は尊重と可視性についての本です。スミスは、文化の中で最も無視され、嘲笑され、悪魔化されやすいグループの一つである中年女性に対し、基本的な尊重と承認を要求します。彼女は、中年女性が優雅に公の場から立ち去り、意見を持つのをやめ、場所を占拠するのをやめるべきだという考えを拒否します。彼女は、中年女性の経験、知識、懸念には価値があり、耳を傾けられ、真剣に受け止められるべきだと主張します。彼女は、卑蔑的な「ハグ(老妖婆)」というレッテルを奪還し、それを力と抵抗の象徴へと変容させます。もし真実を語り、従順を拒否し、自身の境界を主張することが自分を「ハグ」にするのであれば、彼女はそのアイデンティティを誇りを持って受け入れるのです。
本書はすべての中年女性への連帯のメッセージであり、彼女たちにこう告げています。あなたの怒りは正当であり、あなたの声は重要であり、年齢を理由に沈黙させられたり周辺化されたりすべきではない、と。同時にこれは、若い女性や、すべてのフェミニストへの警告でもあります。もし私たちが、年齢を理由に一部の女性が悪魔化されることを許せば、私たちは家父長制のロジックを強化することになります。代際を超えた連帯を築けなければ、私たちの運動は弱体化してしまいます。最後に、これはすべての人へのリマインダーです。ミソジニーには多くの形態があり、中には進歩的な服を着たものもあります。私たちは、それがいかなる場所に現れても特定し反対するために、絶え間ない警戒を必要としているのです。
ヴィクトリア・スミスは、勇気と知恵、そして鋭い機知を持ってこの著作を書き上げ、現代のフェミニスト的議論に極めて重要な声をもたらしました。『ハグ(老妖婆)』は、女性の権利、社会正義、代際関係、あるいは単に人間の尊厳に関心のあるすべての人にとって必読の書です。それは告発であると同時に招待状でもあります。中年女性を体系的に貶めることへの告発であり、あらゆる年齢の女性が尊重され大切にされる世界を想像することへの招待状なのです。特定の女性を消去しようとする文化の中で、本書は力強い宣言となっています。「私たちはここにいる、私たちは沈黙しない、私たちは悪魔化されることを拒否する」のだと。
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