FemRes成長し続けるレビュー
戦争の時代に愛する

チカーナ・フェミニズム · 書物

戦争の時代に愛する

原題Loving in the War Years

著者チェリー・モラガ

チェリー・モラガのチカーナ・レズビアン・フェミニズムを代表するエッセイと詩を、家族、人種化された労働、欲望、言語、連帯から読む。本ページの精読は1983年版が中心で、2023年増補版全体の論評ではない。

この資料を共有
X ↗Facebook ↗

01

書評と読書案内

掲載版は2023年のHaymarket増補版で、原作と『The Last Generation: Poetry and Prose』を収め、Moragaによる新しい序文を加えている。

チェリー・モラガの『戦争の時代に愛する』は、傷ついた経験から自己受容へと一直線に進む回想録ではない。エッセイと詩は、母の労働、家庭の空間、カトリックの記憶、肌の色による通行可能性、レズビアンとしての欲望へと、角度を変えながら何度も立ち戻る。その反復と修正のなかで政治的な理解が形づくられていく。題名の「戦争」は一つの事件を指すのではなく、人種、階級、ジェンダー、セクシュアリティ、言語、文化的帰属をめぐる闘争が交差する場所で生きることを示す。ここで愛は、対立から逃れる場所でも、対立が解決した証しでもない。愛する人や歴史と関係を結び続けながら、ときに批判することを引き受ける営みである。

この方法が最も明瞭に表れるのが「La Güera」だ。モラガはまず、自分と母の非対称性を描く。自分は高い教育を受け、肌の色も比較的明るい。一方、母は幼い頃に学校を離れて農場で働き、その後は工場や家で出来高仕事を担った。若いモラガが母の求職申込書を書き、店で小切手を書く場面は、世代間のケアであると同時に、母が制度によって読み書きの機会を奪われたため、日常を娘が代わりに切り抜ける必要があったことを示す。娘の教育は、貧困からの単純な成功物語ではない。その移動の可能性は、物語を語り、労働を担ってきた母の営みと切り離せない。

作品はその継承をさらに複雑にする。家族が白人に近い外見を持つことは、条件付きの保護につながることがあった。同時に、家庭ではスペイン語が娘に伝えられず、階級差を用いて、より貧しいメキシコ系の人々から距離を取ろうとする価値観も働いていた。明るい肌と教育は、肌の濃い親族には与えられなかった選択肢をもたらす一方、同化を安全と取り違え、自分の歴史の一部を否認するようにも働く。自らを la güera と呼ぶとき、モラガは「白さ」を、持つか持たないかの固定した属性として扱わない。それは時に行使できる特権であり、家庭に浸透した価値観であり、愛する人との隔たりを生む力でもある。彼女が拒むのは、無垢な立場と簡単な贖罪だ。特権を認識しても特権は消えず、チカーナとしての帰属を主張しても、その帰属を形づくった不平等は消えない。

モラガはレズビアンであることを、母が経験したジェンダー化・人種化・階級化された制約との接点として書く。しかし、二人が同じ仕方で抑圧されたとは主張しない。カミングアウトは、自分の人生にある沈黙の仕組みを認識し、その認識を通じて、自分が直接経験していない抑圧にもより責任を負う契機となる。経験の具体性を守ることが重要なのは、傷の順位を競うこと、異なる傷を一つの普遍的な物語にまとめること、理論によって感情的な作業を避けることでは、連帯を築けないからだ。特権と従属が自分のなかでどう働くかを見る必要がある。それでも共感は、現実の責任の代わりにはならない。つながりに気づいたあと、人は変わるために何を引き受けるのか。その変化が居心地の悪いものになったとき、運動は関係を保てるのか。エッセイはその問いを残す。

「A Long Line of Vendidas」は、問いを家族の記憶とチカーノ政治文化へ移す。少女たちが兄弟や男性の来客に仕えるよう求められる記憶は、ジェンダーの序列が明文化された教義だけでなく、日々の家事労働を通じて身につけられることを示す。モラガはその期待を母自身の来歴と並べ、何を受け継ぎ、何を拒み、先行する女性への敬意を理由にどの慣習を一時的に続けてしまうのかを問う。物語は「解放された娘」と「伝統的な母」の単純な対立にはならない。母の願い、優しさ、耐久力、そして制約が見えるまま、そこにある不平等も名指される。

続いてモラガは、性や政治上の選択を理由に女性へ向けられる vendida、すなわち裏切り者・売り渡した者という非難を検討する。彼女はマリンチェ/ラ・チンガーダの物語を読み替え、強い政治的神話が、植民地暴力と文化の喪失の責任を女性に負わせる仕組みを明らかにする。これはモラガの位置に根ざしたフェミニズム的な歴史解釈であり、中立的・網羅的なメキシコ史の説明ではない。彼女が批判するのは、女性に忠誠を要求しながら行為主体性を制限するナショナリズムの物語であり、異性愛の性役割を拒むチカーナ・レズビアンが文化への裏切り者とされる構造だ。ただし、白人フェミニズムも無条件の避難所ではない。その人種的・階級的な排除は、有色人種女性に、他者に理解される言葉へ自分を翻訳するよう求めうる。

形式もまた議論に加わる。本書はエッセイ、記憶、詩、英語とスペイン語の語りのあいだを移動し、経験を単一の学術的な文体へ押し込めない。「La Güera」で、台所における女性たちの声や身振りは、教育が何を軽視するよう自分に教えたのかをモラガに気づかせる。身体、声、家族の物語は、すでに完成した理論を飾る例ではなく、知を生み出す場になる。しかし、形式が混ざり合えば自動的に誰もが読めるようになるわけではない。誰が翻訳を求められ、誰の言葉が知として扱われ、運動が唯一の正しい政治語彙を要求すると何が失われるのか。読者はそこに注意を向けるよう促される。

したがって、本書の連帯は調和でも、アイデンティティのチェックリストでもない。不平等な位置を名指し、抑圧される側も抑圧に加担しうることを検討し、差異が消えたふりをせずに意見の相違のなかにとどまる実践である。チカーノの家父長制への批判と、白人フェミニズムの人種差別への批判は、あわせて読むと最も力を持つ。解放を語るからといって、共同体も運動も批判を免れない。求められるのは、単に「包摂」することより難しい。排除を再生産する習慣、忠誠のあり方、ケアの配分を変えることだ。

今日の読者は、本書を大切にしながら、そのすべての表現を批判の外に置かずに読むことができる。議論は特定の歴史的状況に根ざし、アイデンティティと政治的帰属についての考えは、服従ではなく対話を促す。その緊張こそが、本書を今も有用にしている。フェミニズム思想を、責任を伴う未完の仕事として示すからだ。グロリア・アンサルドゥーアの『境界地/ラ・フロンテラ』とあわせれば、言語、境界的なアイデンティティ、文化の混交を考える手がかりになる。モラガがアンサルドゥーアと共同編集した『わが背負いし橋』と読めば、彼女の一人称による介入を、より広い有色人種フェミニストの対話のなかに置ける。これらは互いを照らす読書相手であって、モラガ固有の声の代わりではない。

**読解範囲:**本ページの精読は、提供された1983年South End Press版の全冊を資料とし、「La Güera」と「A Long Line of Vendidas」を中心に論じている。書誌情報はHaymarketが2023年に刊行した増補版 Loving in the War Years: And Other Writings, 1978–1999(ISBN 9781642599060)に対応する。同版には The Last Generation からの作品も収録され、新しい序文が加わっている。1983年版と2023年増補版は、収録作品と序文の異なる版として区別する。

読者の声

読者ノート

読後の考えや、さらに追いたい手がかりを共有してください。

ディスカッションに参加

コメント

コメントを読み込み中...

サポート

このコンテンツがお役に立ちましたら

FemResを支援