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生きるために語る:ラティーナ・フェミニストの証言

ラティーナ・フェミニズム · 書物

生きるために語る:ラティーナ・フェミニストの証言

原題Telling to Live: Latina Feminist Testimonios

著者ラティーナ・フェミニスト・グループ

ラティーナのフェミニスト集団が証言を共同研究へ結び、経験、学術制度、差異を消さない知識の作り方を考える。

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書評と読書案内

『生きるために語る:ラティーナ・フェミニストの証言』が問うのは、ある人生の物語が、すべての人を代表させられることなく、どのようにフェミニストの知識になり得るかということだ。ラティーナ・フェミニスト・グループの18人の寄稿者は、プエルトリコ系、チカーナ、メキシコ系、キューバ系、ドミニカ系、セファルディ系、先住民、中米系、複数のルーツを持つ人など、多様な歴史的位置から参加している。出版社は、彼女たちを詩人、口述史家、文学研究者、民族誌研究者、心理学者として紹介し、経験を通じて知を生み出すという共通の関心を記している。ここが重要だ。物語は、すでに完成した理論に後から付け足される例ではない。何が証拠とみなされるのか、誰が知識の担い手として認められるのか、制度に見える存在になるためにどのような労働が求められるのかを、語り手自身が問い直す。

本書は「エンパワメントの系譜」「消去の錬金術」「身体が記憶すること」「情熱、欲望、祝祭」の四部で構成され、教育、記憶、身体、労働、親密さ、喜びを一つの地図に置く。目次では「あなたはユダヤ人だからスペイン語を話すの?」「象牙の塔へようこそ」「身体を読む」「恥じない欲望」といった題名が並ぶ。この構成は、公的な政治と私的な経験が別々の領域ではないことを示唆する。名前、家族の物語、身体の記憶、欲望は、階級、人種、言語、セクシュアリティ、制度的権威がどう編成されるかを明らかにし得る。各人の語りを一つの理論の実例に還元する必要はない。異なる物語が、理論を読む側の問いそのものを変えていく。

序論は、執筆方法が転換した経緯も記している。グループは当初、ラティーナをめぐる協働的な比較研究を試みたが、従来型の比較では複雑な経験が変数へと縮減されかねないと気づいた。そこで自分たちの人生の軌跡を共同の探究対象とし、七年間にわたる集まり、語り、対話を通して、差異を消さずにその向こう側へ話しかける方法を模索した。これは分析を拒むのではなく、誰が分析するのか、カテゴリーはいかに作られるのか、研究者は自らの生について知を生み出せるのかを問う転換だった。Testimonio は語りの形式であると同時に、研究者・語り手・聞き手のあいだの権力を組み替える方法でもある。

ここでの testimonio は、媒介されない透明な自己記録ではなく、具体的な位置から誰かに向けて語る証言として捉えるとよい。人生は特定の言語、ジャンル、関係のなかで語られ、聞き手は誰か、何を語れるのか、何が信じられるのかが物語を形づくる。寄稿者たちが専門的な知識生産者でもあるからこそ、この問題は鋭くなる。高等教育は道具や発言の場を提供する一方、「適切」な話し方、個人の著者性、距離を保った専門知を規定する。集団による執筆と、回想、詩、対話、考察を混ぜた形式は、そうした基準が中立ではなく制度によって選ばれたものだと見えるようにする。生活経験が学術的な承認に変わるまでにどんな労働が必要なのか、そしてその労働を誰が引き受けさせられるのかを読者に考えさせる。

したがって連帯は、差異が消えたという主張ではなく、実践である。出版社の説明が強調するのは、人種、国民的背景、言語、宗教、性、階級の違いだ。目次も、そうした歴史を一枚岩の「ラティーナ女性の経験」に溶かしてはいない。共通の政治的企ては連帯の場をつくりながら、意見の違いや制度上の不均衡も見えるままにできる。これは簡単ではない。差異を普遍的な「女性の経験」に平らにしてはならないが、差異を聞くことや互いへの責任を避ける口実にもできない。フェミニストの知識をつくる過程に、この緊張を残すことが本書の理論的な力になっている。

複数の形式を並置することには、もう一つ方法論的な意味がある。詩、家族の断章、対話、学術経験は同じ種類の知識を主張しているわけではなく、滑らかな一つの成長物語に押し込めれば差異が消えてしまう。それらの併存は、語り手全員に同じ資格ある声への翻訳を求めるのではなく、何を知識として認めるかを制度の側が広げるよう促す。周縁化された経験を含めることは終点ではない。経験を信頼できるものにする基準そのものが、本書の問いなのだ。

本書の射程も具体的に捉えたい。中心にあるのは、20世紀末から21世紀初頭にかけて、アメリカ社会と高等教育のなかで位置を交渉した女性たちの経験であり、ラティーナの生活、先住民女性の歴史、ラテンアメリカのフェミニズム全体を網羅するものではない。「ラティーナ」という言葉は政治・文化的な歴史を結びつける一方、人種、移住、言語、国、植民地主義との関係の違いを覆い隠すこともある。誰が理論を書く権利を持つのかを問う本として、『顔をつくり、魂をつくる』は芸術、文学、批評を差異を越える対話に置き、『私たちが家と呼ぶこの橋』は連帯を未完で変化し続ける実践として考える。両書は補い合う読書の道筋であり、同じ経験を語るものではない。

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