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証言の力――フェミニサイドに抗して

ラテンアメリカ・フェミニズム · 書物

証言の力――フェミニサイドに抗して

著者Rosa-Linda Fregoso

メキシコの反フェミニサイド運動を通して、ローザ=リンダ・フレゴソが記憶、芸術、法的証言、移住、集団的責任を結び直し、フェミニズムの証言を再考する。

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書評と読書案内

ローザ=リンダ・フレゴソの『証言の力――フェミニサイドに抗して』は、暴力を認定するはずの制度そのものが不処罰を支えているとき、証言には何ができるのかと問う。彼女は、証拠や法を捨てるのではなく、「証言」の意味を広げる。証言者とは、事実を法廷で証明する独立した傍観者だけではない。記憶し、語り、表象し、耳を傾け、その後の責任を引き受ける人々の関係の中にも証言は生まれる。見ることは、自分は関係ないと主張する根拠ではなく、どう応答するのかを考える出発点になる。

本書の構成は、この議論を具体化している。約十年にわたって書かれた論考を序章と後記で挟み、六つの章と三つの間奏に編成した一冊だ。単一の事件を時系列で追うのではなく、証言の記録とメキシコのフェミニサイドの歴史から、芸術家、共同の記憶、人民法廷、ジェンダーに基づく迫害を理由とする庇護申請の証言へと移っていく。法的・政治的・美学的な実践を同一視せず、それぞれがどこで交わるかを示す構成である。フレゴソが求めるのは「どちらか一方」ではなく「両方を考える」視点だ。正式な証言は重要だが、法廷が共同体の知る事実や正義の要求をすべて包摂できるわけではない。

この違いは、殺害され、あるいは行方不明になった娘を捜す活動家の母親や親族の営みに表れる。警察や行政機関が訴えを先送りし、軽視し、調べようとしないとき、家族は本来負う必要のない仕事まで担わされる。証拠を集め、名前を広め、写真を保存し、公に説明責任を求めるのだ。こうした記憶の営みは、私的な悲しみを観客に見せることに尽きない。誰の命が記録に値し、誰の失踪が無視されてもよいのかを決める公式アーカイブの権力に異議を唱える。親族関係は悼む対象であるだけでなく、政治的知を生み出す基盤にもなる。「Ni Una Más」(もう一人も失わせない)という呼びかけは、記憶を未来への要求へと向け直す。失われた命を不可避なもの、受け入れるべきものにしてはならない。

フレゴソが用いる「フェミニサイド」という語も、分析を個人の残虐行為だけにとどめない。ジェンダー化された殺害が、人種化、階級、セクシュアリティ、労働、植民地主義の歴史、警察活動、国家による放置の交差する条件のもとで、いかに繰り返されるのかを問う。米墨国境で貧困と人種化にさらされた女性労働者の危険は、特定の身体をより傷つきやすくし、失踪を軽く扱わせる経済・政治の仕組みと切り離せない。ただし、これはメキシコの女性や国境地域の共同体すべてに同じ経験を当てはめる主張ではない。歴史と場所を具体的に保ち、「文化」を暴力の時代を超えた言い訳にしないことが、本書の力を支えている。

芸術は、見過ごしを断ち切ることも再生産することもできる、もう一つの証言の場だ。フレゴソはルルデス・ポルティージョ監督のドキュメンタリー『Señorita Extraviada』を読み、映像、証言、風景、音が、見る者と生者・死者をどう結び付けうるかを考える。ただし、「目にすること」を「理解したこと」と取り違えてはならない。『The Wall of Memories: Las Desaparecidas』や『ReDressing Injustice』のような企画は、肖像、名前、衣服、共同の儀礼を通じて公共の記憶を形づくる。こうした表現は消去に抵抗する一方、可視化は自動的に倫理的とは限らない。殺害された女性の映像が流通し続ける見世物になることもあり、証言が親族を新たな危険にさらすこともある。問うべきなのは、作品が苦痛を見せているかだけではない。誰が映像の使い方を決め、誰の記憶に奉仕し、観客にどのような関係を求めるのかである。

「寄り添い」という考え方は、この倫理をさらに厳しく試す。ピンクの十字架、追悼の集い、抗議の歌、記念碑、公開審理はそれぞれ異なる働きをし、どれも具体的な保護や制度の説明責任に取って代わるものではない。フレゴソが論じる人民常設法廷では、公開の場が事件に関する事実の証言と、母親や支援者が生きてきた経験の知をともに受け止める。国家中心の司法が人々を失望させたときにも、その声を記録に残せるからだ。訪問者、研究者、国境を越えた支援者にとって、連帯とは物語を奪い取ることではない。耳を傾け、相互に応答し、危険を承知で活動する人々の主導権を尊重することが求められる。

最終章「奪われた命と逃走」は、この枠組みを移住とジェンダーに基づく庇護申請へと運ぶ。専門証人としての経験を通じ、フレゴソは、サバイバーがトラウマを語り、専門家がその証言を危険度の評価へと翻訳する法的手続きの内側にいる。その翻訳は必要であると同時に、政治的な緊張をはらむ。法的保護を得るため、女性は「脆弱な人」として語られることを求められ、フェミニズムが問い直そうとする受動的な被害者像に固定されかねない。しかしフレゴソは、法的支援を拒絶してこの矛盾を消し去ろうとはしない。脆弱性というカテゴリーを戦略的に使い、生きる権利を確保し、子どもを守る道もある。同じ制度が家父長的な保護の論理を延命させながら、生存の道を開くこともある。誰が語りを形づくるのか、サバイバーの主体性が認識され続けるのかが分岐点となる。

「逃走」は、別の拒否の形を示す。暴力から逃れる人は、国境を越えて運ばれるだけの対象でも、国家の判断を待つだけの案件でもない。立ち去ることは、暮らしを不安定にし、あるいは不可能にする条件への主体的な応答でありうる。本書は移住を、植民地的な収奪、人種による統治、不平等な国境の長い歴史の中に置き、「救済」を称賛しながらその歴史に触れない人道主義的な物語を問い直す。強制された移住を美化するのではなく、新たな見世物へと変えずに未来を可能にする保護、連帯、政治的責任とは何かを問うのである。

本書が残す緊張は、証言が、すでに大きな負担を背負う人々への新たな要求になりうることだ。何度も証言し、苦痛を遠くの人にも分かる言葉にし、外部の観客を教育する役まで引き受けるよう求められるかもしれない。関係的な証言の理論が力を持つのは、サバイバーに可視であり続けることを求めるのではなく、聞き手や制度の振る舞いを変えるときだ。記憶、芸術、法律、運動が集団的な実践を支えながら、拒否し、沈黙し、立ち去る権利をどう守るのか。フレゴソの問いはそこにある。南北アメリカ大陸全体におけるフェミニサイドの構造を広く捉えるには、フレゴソとシンシア・L・ベハラノ編の『女性を恐怖に陥れる――アメリカ大陸のフェミニサイド』と併読できる。互いに補い合う読書の道筋であり、同じ対象を同じ方法で描く本ではない。

**資料と関連文献:**デューク大学出版局の書籍紹介・目次、公開されている導入部の抜粋、Nathalia P. Hernández Ochoa による E3W の書評、および Deborah Eade による『Gender & Development』の書評を参照。

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