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運動するフェミニズム

ラテンアメリカ・フェミニズム · 書物

運動するフェミニズム

原題Feminisms in Movement

著者リヴィア・デ・ソウザ・リマ, エディス・オテロ・ケサダ, ユリア・ロート

Lívia De Souza Lima、Edith Otero Quezada、Julia Roth 編。アメリカ大陸のフェミニズムを単一の伝統に還元せず、理論、身体経験、運動の形式から描く論集。

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書評と読書案内

『運動するフェミニズム——アメリカ大陸の理論と実践』は、学術理論が街頭へ一方向に応用される物語を拒む。Lívia De Souza Lima、Edith Otero Quezada、Julia Roth 編の本書は活動家、芸術家、研究者、共同体の知を同じ水準に置く。「運動」は抗議、組織化、制度改革だけでなく、概念が国境、言語、闘争を越える際の変化も意味する。

植民地主義的ジェンダーと近代家父長制から始まり、キューバ11J抗議のブラック・フェミニスト廃絶論、コロンビア真実委員会、中米女性運動、ニカラグア LGBTQ+ 史、チリ制憲運動、ブラジル先住民文学と環境知へ進む。「アメリカ大陸」は単一文化圏ではなく、植民地主義、奴隷制、独裁、革命、移住、採取主義が作った不均等な関係場として現れる。

交差性を身分項目の列挙から再政治化する点が重要である。ジェンダー暴力、人種主義、ホモ/トランス嫌悪、資本搾取、気候危機、植民地性は隣接した問題ではなく、土地、警察、選挙、世帯、労働で共に働く。周縁の視点は中心理論へ代表を加えるだけでなく、政治主体とは誰か、何が暴力か、どの知が未来を組織できるかという問いを変える。

身体=領土とエコフェミニズムの章は、身体的自律を土地防衛と採取主義へ結ぶ。鉱業、アグリビジネス、国家暴力は、地域へ侵入すると同時に女性とクィアの安全、労働、生殖を再編する。先住民女性の環境知はロマン化された伝統ではなく、収奪に抵抗し共同生活を維持する政治実践であり、気候正義を植民史と土地権から切り離せなくする。

形式自体も論点である。論文とインタビュー、文学、記念実践、ラップ、LASTESIS の経験を並べ、踊り、標語、集団記憶、組織方法も理論を生むと認める。Lélia Gonzalez、Sueli Carneiro、Marielle Franco の系譜は、知が英語圏学界だけで生まれないことを示す。翻訳と大陸間対話は概念の地域史を保ち、北の一般語へ還元してはならない。

広さゆえの限界もある。章の深度と方法は不均一で、英語・スペイン語・ポルトガル語回路外の地域も少ない。「アメリカ大陸のフェミニズム」は、国家内部やカリブ、北部先住民、移民社会の巨大な差異を隠しうる。各事例の後続政治も追い、2024年の運動地図を静止した全景にしない注意が必要である。

本書の構成にも注目したい。編者は「時間性・運動・身体化された経験」を読むための三つの軸とし、「理論化と認識論的対話」「身体化された経験と知の生産」「フェミニストたちの対話」の三部に整理する。アメリカ大陸各地のフェミニズムを、北から南へ、過去から現在へと進む一本道の歴史に並べるのではなく、異なる歴史的系譜と同時進行の実践を並置する構成だ。編者自身も、これは選び取られた地図であり、完全でも代表的でもないと明記する。出版社の書誌情報と目次、公開サンプルに収録された編者序論がこの読み方を支える。(出版社の書誌情報;オープンアクセス・サンプル)

第一部では、意見の違いそのものが方法として提示される。マリア・ルゴネスの「ジェンダーの植民性」とリタ・ラウラ・セガトの「植民性と近代的家父長制」が並ぶ。編者の説明によれば、セガトは植民地化以前の社会にもジェンダー差異が存在したとし、植民地近代がその意味を変え、新たな二分法や公/私の分割を導入したと論じる。この違いは、家父長制が「西洋発か土着か」という単純な二択を越え、植民地権力が既存の関係をどう変え、分類を制度化し、特定の経験を見えにくくするかを問わせる。両者を対話として読むことで、脱植民地フェミニズムを内部で意見の一致した学派のように扱わずにすむ。セガトの章の記録は著者と書誌を確認するもので、ここでの要約は編者序論に基づき、章全体を読んだという主張ではない。(セガトの章の書誌記録)

交差性も、複数のアイデンティティを並べるだけの概念ではない。編者は、サンドラ・ハイドルによるキューバの2021年7月11日(11J)抗議の分析を、懲罰国家を批判するブラック・フェミニストの刑罰廃止論として紹介する。貧困、黒人性、規範から外れるセクシュアリティ、政治的異議がどのように同時に犯罪化されるか、またケアが廃止論的な解放構想にどう位置づくかが焦点となる。コロンビアのカリブ地域における真実委員会を扱う章は、制度の実践と社会政治的変革へ視点を移す。両者を同じ「女性の抵抗」の例にまとめてはならない。国家構造、歴史、行動に伴う危険がそれぞれ異なるからだ。比較の手がかりは、誰が政治主体として認められ、何が暴力として見え、制度を変える負担を誰が負うかを問うことにある。

別の章群は身体、場所、知識の生産を結びつける。編者は「身体=領土」という見方と、メキシコ・ハリスコ州の女性エコロジー協同組合 Huizachera を取り上げ、集団的実践から生まれる知が地域の現実に介入する過程を紹介する。知は外部機関が抽出してデータ化する対象にとどまらず、場所、生殖、組織化、そして誰が問題を定義する権限を持つかに関わる。またメキシコのクィア/cuirフェミニスト社会学を扱う章は、「queer」という概念が別の文脈に入ると何を説明でき、何を覆い隠しうるのかを問う。翻訳は同じ用語を別の言語に置き換えるだけではない。土地、身体、国家、概念それぞれの地域史と交差する。先住民の知を、具体的な共同体から切り離された普遍的な環境知としてロマン化しないことも重要だ。

形式もまた、何が理論と見なされるかを広げる。学術論文と並んで、チリの集団 LASTESIS との対話、アニエレ・フランコへのインタビュー、ラップ、詩、記憶をめぐる実践が収録される。編者はこれらを研究の装飾ではなく、知識の地図を構成する表現として位置づける。芸術や記憶は政治的判断を共有し、問い直し、再組織化する力を持つ。ただし、芸術が自動的に解放的なのではなく、対話に参加する一人の活動家を運動全体の代弁者とみなすべきでもない。

この論集の価値と限界は、同じ編集上の選択から生まれる。多くの文脈を横断する一方で、収録されるのはあくまで一部であり、章ごとに規模や方法も異なる。「アメリカ大陸のフェミニズム」という枠は地域や共同体の差異を隠す可能性があり、同じ本に収録されたことは執筆者全員の合意を意味しない。まず第一部で概念間の論争を追い、次に第二部で身体化された実践と知の生産を読み、最後に第三部で活動家や芸術家自身が公共的行動をどう語るかに耳を傾けるとよい。本書が残すのは「多様なフェミニズムがある」という感想ではなく、誰が理論を作り、誰が行動の危険を引き受け、誰が共通の未来を決めるのかという問いである。ルゴネスの『Pilgrimages/Peregrinajes』と組み合わせれば、「ジェンダーの植民性」と連帯の議論を掘り下げられる。これは編集上の読書提案であり、影響関係についての事実主張ではない。

**版:**書誌項目は transcript Verlag のペーパーバック(ISBN 9783837661026、Columbia University Press 配給、出版社表記は2024年4月)を指す。無料のオープンアクセス電子版には別のISBN 9783839461020 が付されている。Abya Yala と Améfrica Ladina は地域固有の歴史を持つ政治語彙で、「アメリカ大陸」の一般的な言い換えではない。

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