FemRes成長し続けるレビュー
ケアをめぐる問い

ケア経済 · 書物

ケアをめぐる問い

原題Matters of Care

著者María Puig de la Bellacasa

知識生産、パーマカルチャー、土壌の生態から、ケアを維持労働・情動・倫理的義務として読むフェミニスト批評。

この資料を共有
X ↗Facebook ↗

01

書評と読書案内

本ページで「ケアをめぐる問い」とした題名は、Matters of Care: Speculative Ethics in More than Human Worlds の編集上の日本語訳である。María Puig de la Bellacasa は、ケアを慰めとなる道徳的スローガンにせず、人間だけに還元されない世界へフェミニストのケア倫理を広げる。ここでケアとは、世界を維持・修復する労働、関係に巻き込まれる情動、そこから生じる倫理的・政治的な義務の三つが重なり合うことだ。三者は自動的に一致しない。愛情は具体的な労働の代わりにならず、維持は情動のないまま強いられることもある。また、何を「よいケア」と呼ぶかを決めること自体が政治的な介入になる。本書はこの緊張を一挙に解消するのではなく、そこから問いを始める。

最初の三章は、この問いを知識生産へ向ける。第1章ではフェミニストの知識政治を通して、ブルーノ・ラトゥールの「関心の事柄」を読み直す。研究は、すでに存在する世界をただ記述するのではない。どの存在、労働、問題が重要なものとして立ち現れるかにも関わる。だから「ケアの事柄」は、対象について情報を追加することだけを意味しない。研究方法や表象が何をもたらし、どんな関係を見えやすくし、誰を再び無視しうる存在にしてしまうのかを問う。ケアは研究への賛辞ではなく、関与の仕方を問う批判的実践になる。

第2章は、Donna Haraway の状況に根ざした知を手がかりに「ケアとともに考える」ことを展開する。著者は、他者とともに考えること、いまいる関係の内部から異議を唱えること、他者のために考えようとすることを区別する。最後の試みは、代弁や他者の経験の取り込みへ傾く危険がある。支配に反対するフェミニスト研究であっても、研究対象の経験を解釈する権威を研究者が独占することはありうる。本書はこの危険を消す手法を示さない。むしろ、知識は関係の中で生まれ、現実に作用するのだから、その思考を可能にした関係に応答し続ける必要があると論じる。

第3章「触れるヴィジョン」は、議論を感覚の次元に移す。触覚は、距離を置いた中立的な視線を揺さぶる。接触は、身体と物質が互いに作用することを思い出させるからだ。しかし、近さは無害さを保証しない。触れることは望まれない場合も、暴力や取り込みを伴う場合もある。触覚インターフェースが親密さを約束しながら、操作する側をその結果から遠ざけることもある。この区別は技術以外にも当てはまる。人、共同体、生態系に近いからといって、その関係が互恵的・倫理的になるとは限らない。ケアには、相手の反応、拒絶を含む反応に注意を向けることが欠かせない。

この議論は、ケア労働へのフェミニスト的な問いも鮮明にする。ケアは、維持、気づかい、修復といった日常的で反復される仕事によって支えられるが、その仕事はしばしば天性、私事、あるいは誰かが際限なく担えるものと見なされる。本書は、ケアする人の適格さを情愛の有無で測ることに反対する。そのような期待は、有償・無償のケア労働をさらに搾取しかねないからだ。同時に、善意を実際の支援の代わりにすることも拒む。誰が世界を維持するよう求められ、その労働が誰の目から消え、何を「できるかぎりよく生きること」と定めるのは誰なのか。この問いがケアの政治にある。

第2部は理論から普遍的な答えへ進むのではなく、具体的な場所に根ざした生態的実践へ移る。「オルター生政治」(alterbiopolitics)の章で著者は、2006年にカリフォルニア州ボデガ・ベイ近郊で参加したパーマカルチャーの研修を振り返る。地球をケアし、人々をケアし、余剰を還元するという原則は、堆肥づくり、土壌の手入れ、知識の共有、集団的な組織づくりとして現れる。ミミズの存在によって、政治は具体的になる。ミミズは人間の役に立つ道具に尽きない。ともに作業することで、人が何に気づき、何を大切にし、何に応答するのかが変わる。ケアは、あらかじめ備わった道徳的資格ではなく、関係を作り変える日々の実践なのだ。

著者は、この事例の射程も限定する。パーマカルチャーには多様な実践があり、その多くは農業生態学や先住民の土地ケアにも見られる。著者が出会った運動はグローバル・ノースの文脈にあり、白人性や特権をめぐる批判を受けてきた。この留保は重要だ。生態的ケアの語りは別の伝統から学びながら、その歴史や知の権威を認めないことがある。著者はこれを考え続けるべき緊張として示し、ひとつの運動をあらゆる生態知の代表とは扱わない。この事例は集団的な実践倫理の可能性を見せると同時に、誰の土地との関係から、どのような条件で学んでいるのかを問わせる。

「土壌の時間」は、本書の独自な糸を前景化する。ケアには時間性がある。工業的・生産主義的な考え方は、土壌を投入物とみなし、その肥沃さに人間の需要の速度を求めがちだ。これに対して土壌フードウェブのモデルは、微生物、菌類、線虫、ミミズ、植物などの相互依存する生命を可視化する。そのリズムは単一の収量スケジュールに還元できない。著者の主張は単に「人間はゆっくりすべきだ」ということではない。「ケアの時間」をつくるとは、維持や再生のように、革新、危機、数値化された成果と比べて目立たない複数の時間に場所を与えることだ。生態的ケアには、進歩と効率をどの時間軸で測っているかを問い直す必要がある。

結びは、生産的でありながら解決されない問いを残す。人間以外の活動をケアと呼ぶとき、私たちは分散した作用を認めているのか、それとも人間に関心を持たないかもしれない存在へ、人間の倫理語彙を投影しているのか。著者は最終回答を出さない。こうした思弁をすべて退ければ、人間中心の「サービス」や「資源」という語りが温存される一方、安易な投影は差異や強制を消してしまう。本書は普遍的な処方箋を与えず、事例も世界全体を代表しない。その点こそが、簡単な無垢を許さない価値でもある。「ケアワーク:障害正義を夢見る」 は障害正義と人間のケア基盤を、ハラウェイの「トラブルとともに生きる」は別の状況的な多種共生の政治を考える手がかりとなる。どちらも本書の代替ではなく、「誰がケアするか」だけでなく、「この具体的な世界には、どんな労働、関係、義務が必要なのか」と考えるための対話相手だ。

本ページの日本語題は編集上の訳題であり、原著の書誌情報・章立てはミネソタ大学出版局を参照。著者の先行論文「技術科学におけるケアの事柄」は関連する議論を展開するが、別の著作である。

別の形式で読み進める

特集をたどる

読者の声

読者ノート

読後の考えや、さらに追いたい手がかりを共有してください。

ディスカッションに参加

コメント

コメントを読み込み中...

サポート

このコンテンツがお役に立ちましたら

FemResを支援