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ワンダ

女性映画 · 映画

ワンダ

原題Wanda

自力で苦境を抜け出せない労働者階級の女性を主人公に据えたバーバラ・ローデンの映画。女性は模範にならなければ描かれるに値しないのかを問う。

監督
Barbara Loden
年
1970
地域
アメリカ
上映時間
103分 · Criterionが記載する修復版の上映時間。
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夫と子どもを離れた女性が、そのまま自由な新生活へ進むわけではない。バーバラ・ローデンが脚本・監督・主演を担った『ワンダ』(1970)は、貧しい女性をペンシルヴェニアの工業地帯、酒場、モーテルへと追い、やがてある男の銀行強盗計画へ導く。家庭の外に延びる道は、明快な覚醒の旅にはならない。良妻賢母の要求にも、自立した成功者の理想にも応えられない女性の人生は、それでも長編一本を占めるに値するのか。作品はこの難しい問いを残す。

ワンダの困難は「自信のなさ」だけでは説明できない。1974年の『Women and Film』掲載インタビューの導入は、作業が遅いため縫製工場の職を失い、自分の離婚手続きにも遅れる姿を記す。工場は適格な速度を、家庭は適格な母親を求める。両方で不適格とされても、その基準自体が公正だとは限らない。ジェンダーと階級が重なって彼女を制約する一方、それは心理的診断の根拠でも、すべての労働者女性を代表させる理由でもない。

模範にならなくても主人公でいられる

ローデンはこのインタビューで、映画はワンダのような人ではなく、何かを達成し模範となる女性を描くべきだという批判に答えている。その要求は、自分もかつて生きた状態を否定するものだと彼女は捉える。争点は肯定的か否定的かというイメージの評価にとどまらない。誰が真剣に描かれる資格を持つのか。まず状況を克服できると証明しなければならないなら、実行可能な選択肢が最も少ない女性が、再び画面から排除される。

だからといって、ワンダのすべての決定に賛成する必要はないし、ケア責任を離れることをそのまま解放と呼ぶ必要もない。人物の可視性と行為への道徳的承認は別の問題である。人を傷つけ、悪い選択をする人にも、理解されるべき依存や欠乏がある。フェミニズムの読みは、主人公に徳の証明書を与える前でも関係の成り立ちを問えるし、制約下の行動をすべて抵抗として美化せずにも成立する。

結婚の後に続く強盗犯との関係も、自動的に平等にはならない。犯罪の世界もジェンダー権力の外部ではない。居場所、連れ添う相手、必要とされる感覚への欲求が、別の依存へ人を導くこともある。これを自由な選択とだけ呼べば条件が消え、受動的な被害者とだけ呼べば、彼女の移動や応答への注意が止まる。ここにあるのは達成済みの自律ではなく、簡単には分類できない行為の余地だ。

遅さは「立ち直り」を待つ時間ではない

ローデンはゆっくり進む映画が好きだと述べ、『ワンダ』も誰もが好む作品ではないと認めている。遅さは劇的展開を作れなかった結果ではない。それは観客が何を待つかを変える。男をきっぱり拒むこと、仕事を得ること、人生の主導権を取り戻すこと。その報酬が訪れないとき、見るという行為は、語る価値のある人生についての私たち自身の要求を露わにする。

ドキュメンタリーに近い様式も、手を加えない生活記録を意味しない。ローデンは、ロケ場所を探し、空の銀行を整え、既存の照明器具の電球を明るいものに替えた仕事を語る。小さな撮影班にも環境を作る労働がある。貧しい場所は撮影された途端に自ら真実を語るわけではない。場面、演技、持続時間が制約を感じさせても、それは地域の全女性についての社会調査ではない。

撮影に参加した炭鉱地帯の住民が、華やかな映画を期待して失望したことも彼女は回想する。「自分を見てもらう」願いは単純ではない。貧困や途方に暮れる姿だけを通じて認められたいとは限らないからだ。商業的な魅力を拒んでも、誰が本物らしさを決めるのかという問いは残る。作品を大切にすることと、この居心地の悪い疑問を持つことは両立する。作り手と地域社会の望む像が常に一致すると考える必要はない。

作者、役柄、新聞記事のモデル

強盗の筋書きの出発点は、二十年の刑を言い渡され、判事に礼を述べた女性の新聞記事だった。ローデンは本人に会えず、ワンダの性格を想像と自分が知る感情から作ったと説明する。記事の刑期を映画の結末に移したり、作品を実在女性の公認伝記とみなしたりしてはならない。演じる人と役柄の親密さは、人生の同一性を意味しない。

ローデンは、制作を事前に設計した女性解放の教育計画とも説明しない。抑圧に関心を持ちながら、映画には既成の解決策を示す義務があるのかを問う。その自己説明だけで観客の政治的解釈は決まらない。ただ、主人公が最後に何を学ぶかだけでなく、何がもはや無視できなくなるかにも、フェミニズム的な価値はありうる。状況を理解することと解決を提案することは、関連していても同じ仕事ではない。

ナタリー・レジェの『バーバラ・ローデンの生への補遺』は、他の女性を通して語ることを、書く側の問題へと進める。近づくことは相手の物語を所有することにもなりうるのか。レイラ・キラニの『瀬戸際で』にも具体的な接点がある。監督声明によれば、彼女は映画の自由、演出、人物について考えるため、出演者に『ワンダ』を見せた。モロッコの女性労働者と米国の女性は同じ経験ではない。それでも両作は、非の打ちどころのない被害者か成功した反逆者にならなければ映画の中心に立てない、という期待を揺さぶる。

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