フェミニスト理論 · 研究
理性的であること、物語ること
Being reasonable, telling stories
2000年のフェミニスト理論をめぐる論争で、リタ・フェルスキはウォルビーの議論の方向性に賛同しつつ、ハラウェイとアイリス・マリオン・ヤングの捉え方を問い直す。
研究ガイド
リタ・フェルスキの「Being reasonable, telling stories」は、2000年刊行の『Feminist Theory』第1巻第2号、225–229頁に掲載された。議論、社会的位置、共有できる政治的主張をめぐる論争のなかで、この題名は「理性」と「物語」を単純な二者択一にしない。中立で普遍的とされる理性をフェミニズムが問い直す必要がある一方、具体的な生活経験も、それだけで自らの意味を説明するわけではない。まず注目したいのは、批判の対象となる理論を正確に捉えるという姿勢である。
出版者の著者注で、フェルスキはシルヴィア・ウォルビーの議論の方向性にはおおむね賛同する一方、ウォルビーが選んだ批判対象の一部に疑問を示す。例として挙げるのは、客観性や科学的手続きを重視するドナ・ハラウェイの仕事と、差異の理論を無条件に支持するとは言えないアイリス・マリオン・ヤングである。これは思想史上の細部にとどまらない。相手が実際には採っていない立場を批判すれば、論争は見かけ上単純になり、議論そのものも弱くなる。方法も知の政治も異なるフェミニスト同士だからこそ、異論を正確に記述することが必要になる。
題名からは、物語と論証がフェミニストの知識形成にどう関わるかという問いも開かれる。物語は時間、関係、矛盾、感情を通して、抽象的な分類に還元されない生活を伝える。論証は前提を明らかにし、複数の事例を結び、反例を受け入れ、主張と証拠のつながりを検討する。経験の語りが概念の修正を促すこともあれば、概念が一つの語りだけでは見えにくい構造を示すこともある。ただし、どちらか一方が自動的に解放的なのではない。「真正な経験」を理由に物語を批判の外へ置くことも、特権的な立場を中立の手続きに見せることもできてしまう。
この緊張は、フェミニズムの資料を読み、残すうえで重要だ。証言は解釈を必要としない生の素材ではなく、抽象的で落ち着いた学術語も、それだけで客観的になるわけではない。誰の経験が知識として受け取られているか、特定の立場が普遍的な尺度に置き換わっていないか、個別の経験から集団的な主張へ進む推論が検討可能かを問いたい。ハラウェイとヤングの位置づけを問い直すフェルスキの指摘は、相手の立場を正確に記述することも、フェミニストの批判に含まれると教えてくれる。
同号の流れに置くと、この応酬が見えやすい。ウォルビーの「位置の政治を超えて――グローバル時代における論証の力」を読み、クナップの「論証により大きな力を」、フェニックスの「同盟の政治をめざして」と比べ、続いてウォルビーの「フェミニスト理論を求めて」へ進める。同号の関連論考をたどると、異論がどのように積み重なったかが見えてくる。経験を論証に参加させ、論証をそれが描こうとする生活に応答させること――フェルスキの題名は、その両方を続けて考える入口になる。出版者の書誌情報も参照。
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